HRILIU!

HierosPhoenix2007-05-03

Do what thou wilt shall be the whole of the Law.

キリスト教における聖霊の概念は、三位一体である神の三つの位格のひとつとして定義されています。聖霊は人に宿る神の霊ですが、その語源を辿るとヘブライ語のルアク、ギリシャ語のプネウマに行き当たります。即ち、土くれに吹き込まれた神の霊的な息吹、生命の原動力そのものと云えます。

カトリックにおける聖餐(聖体の秘跡)は、キリストの最後の晩餐にその起源を見出すことができるわけですが、パンと杯をもってキリストの肉体と血とし、キリストの現存を体感する手段としています。ミサは共同体の信仰を維持するための重要な儀式として絶えることなく今日まで続いてきました。初代教会では「アガペーの食事」と呼ばれる神聖な儀式があり、同じくパンとワインを分け合うことによって、キリストの最後の晩餐を想起し、信仰を鼓舞していたようです。カトリックにおける聖餐と聖体拝受はミサの中核として位置付けられ、信者は一様にその秘蹟に与ることになります。ここに彼らの魔術が存在します。即ち、宗教改革以降のプロテスタント教会とは異なり、カトリックではこれを単なる象徴と見做すことなく実際のキリストの血肉としてそれを拝受するのです。

黄金の夜明け」団において春分秋分に行われる季節の祝祭では、パンとワインは"義とされし者オシリス・オノフリス"の肉体と血へと置き換えられ、儀式の参加者は聖餐において秘蹟を拝受します。この術式は多くの「黄金の夜明け」系列にて現在も継続されている聖餐の一例です。

魔術上の息子、チャールズ・ロバート・スタンズフェルド・ジョーンズへの個人的指導という形式で書かれたクロウリーの著作『アレフの書』(Liber Aleph vel CXI)の中で、クロウリーは新時代の「完全術式」について解説しています。この術式は、全体で6段階に分割され魔術師によって実行されることになっています。第一段階では作業者は己の真の意志を発見し、作業の目的を定義します。第二段階では、この目的を「蕾の意志」として定式化し、人格を付与します。第三段階では、この人格を「子供」として定式化し、日々の生活における熟考によって浄化・聖別します。ここまでは準備段階ですが、続く第四段階ではミサにより、「子供」に誕生の許可を与えます。第五段階では、ミサの実行により獅子と鷲の結婚させ、黄金の婚礼指輪を召喚することになります。最後の第六段階において、聖餐として「子供」を体内に取り入れ、吸収により「子供」と同化します。

決して直接的ではないにしても、ここでクロウリーは彼が最重視していた魔術の術式を開示しています。『アレフの書』の次の記述は大変興味深いものです。"実体とは父であり、道具は子供である。形而上学的恍惚は聖霊であり、その名はHRILIUである" クロウリー聖霊をHoly Spiritではなく、Holy Ghostと呼んでいることは注目に値します。クロウリーが記述したミサは「聖霊のミサ」(Mass of the Holy Ghost)と呼ばれ、1932年イスラエル・リガルディーの主著『生命の樹』で暴露され有名になったものです。

HRILIUという言葉は、クロウリーが魔術作業の中で受け取った言葉(『霊視と声』第2のアエティール参照)で、クロウリーの翻訳によれば"絶頂の金切り声"(shrill scream of orgasm)という意味になるそうです。『師の心』(The Heart of the Master)では"鳩の言葉"とされネツァク、金星に照応させられています。形而上学的恍惚 = 聖霊 = HRILIUは、クロウリー考案のグノーシスのミサにも登場します。聖なる婚礼と聖餐の段階で司祭と女司祭が揃って叫ぶ言葉こそがHRILIUです。

グノーシスのミサの聖餐が何を意味するのか? それはキリストの血肉でもなく、オシリスのそれでもなく、子供 = ホルスのそれなのです。HRILIUは鷹の頭を持つ主ホルス(ラ・ホール・クイト)の絶頂の雄叫びであり、彼の受肉を告げる鳩の声でもあります。HRILIUは聖霊として人に宿るニュー・アイオンのエネルギーであり、子供が誕生する際に我々はホルスの絶叫を聞くことになるのです。

"Nevertheless, One True God crieth hriliu!"
『虚言の書』 第24章より

HRILIUの数値261はヘブライ語カバラでは義務、拘束を意味するASR, 嫌悪、憎悪、醜態を意味するDRAVNと等価関係にありますが、クロウリーが重視したギリシャカバラでは"太陽の子"(HLIADHF)と等価になります。

相反物の和合(0=2)とその結果生じる子供に同調することこそが、クロウリーの唱導する新アイオンの教えであり、生き方であることは云うまでもありません。

Love is the law, love under will.