Annihilation

Do what thou wilt shall be the whole of the Law.


魔術とは意志に従い変化を呼び起こす科学にして芸術である一方、神秘主義とは個を超越した定義不可能な「歓喜」へと導く為の「消滅」の径です。1947年6月21日、アレイスター・クロウリーから弟子であるカール・ヨハンネス・ゲルマーに宛てた手紙には次のように記されています。 “魔術は、個を私達よりも高次の領域にいる存在と交流せしめるものである。神秘主義とは自身を彼らのレベルへと上昇せしめるものである。”


魔術と神秘主義は、クロウリーが提示した魔術哲学とその実践体系の為の意志の両翼であり、またA∴A∴に打ち立てられた訓練課程の両軸となるものです。それら二つのアプローチは、拡大(魔術)と収縮(神秘主義)という二つの階梯であり、最終的には魔術師の魂の中で融合し、調和され、魔術師を魂の内奥へと導きます。クロウリーは秘儀参入を「内なる旅 Inward Journey」と呼び、それを個の魂の本質を知る為の発見の旅路であると語っています。近年、A∴A∴の大作業の長きにわたる魂の航海を「大いなる回帰の径」と呼んだJ. ダニエル・ガンサーは、その秘儀参入の過程を次のように定義しました。

「死 / 生 / 誕生 / 妊娠 / 受胎 / 統一化 / 無化 」

それは「なにものでもない」定義不可能な原初への回帰であり、その最終段階をクロウリーは好んで「消滅 Annihilation」と呼んでいました。実は、クロウリーはこの「消滅 Annihilation」という言葉を、意図的に涅槃 (ニルバーナ)の英訳として用いています。この作業は、大作業の三つの段階である「聖守護天使の幻視」「聖守護天使の知識と会話」「深淵横断」の内、最後の「深淵横断」に関わるものです。クロウリーによれば、志願者が深淵の辺境に辿り着き、決意と共に自己を完全放棄しなければ、志願者は深淵に墜落し、彼が「黒い同胞達 Black Brothers」と呼んだ失敗者の一団へと堕してしまうと警告します。


O.T.O.の三つの三つ組の三番目のものは「大地の男」と呼ばれる六つの位階を構成しています。それらは各々独立した参入儀式によってのみ授与されます。

■第零位階 Minerval 「彷徨える自我は太陽系に惹き付けられる」
■第一位階 Man and Brother 「誕生」
■第二位階 Magician 「人生」
■第三位階 Master Magician 「死」
■第四位階 Perfect Magician 「死後の世界への参入」
■完全なる参入者, もしくはPrince of Jerusalem (P∴I∴) 「無への回帰」

またクロウリーは、「大地の男」の儀礼の各々の段階を下記の言葉を用いて要約しています。またそれらの言葉は、各位階の秘儀のエッセンスでもあります。

■第零位階 「歓迎」
■第一位階 「秘儀参入」
■第二位階 「聖別」
■第三位階 「献身」
■第四位階 「完全、または高揚」
■P∴I∴ 「完全なる参入者」

「永久の径 Path in Eternity」と呼ばれるこれらの劇的な旅路の過程は下記の通りです。「彷徨える自我の拘束 / 誕生 / 生 / 死 / 死後の世界への参入 / 消滅」。 J. ダニエル・ガンサーは、A∴A∴とO.T.O.のプロセスに於いて、死と誕生が逆転していることを指摘しています。この点は、A∴A∴の参入のプロセスと視座について、極めて有益な示唆を含んでいます。O.T.O.のこれら六つの連続した位階のプロセスは、象徴的な旅路として、最終的に涅槃の前体験を参入者に齎します。そして沈黙のみが支配する空虚な神殿で、最初の三つ組は完了します。


J. ダニエル・ガンサーが定義したA∴A∴の秘儀参入の過程、「死 / 生 / 誕生 / 妊娠 / 受胎 / 統一化 / 無化 」の真意を探るヒントとしてクロウリーの次の言葉を引用したいと思います。

テトラグラマトンの術式は、「愛」の完全な数学的表現である。”

アレイスター・クロウリーは、「真理に対する小論集 Little Essays Toward Truth」の「愛」に関する項目の中で、上記の言葉を述べています。とはいえ、この言葉とA∴A∴の秘儀参入の視座の関係については、少し補足が必要でしょう。志願者たるニオファイト1=10は、その参入儀式『門の書』に於いて、聖四文字ヨッド・ヘー・ヴァウ・ヘーの内の最後の「娘」ヘーとして神殿に入ります。ニオファイトの実際の肉体の性別は、この場合、全く関係ありません。ニオファイトは、彼女の秘密の恋人である「王子」ヴァウ「息子」と邂逅し、愛を育みます。やがて二人は神聖なる婚礼の間で一つになります。この偉大な婚礼は、「聖守護天使の知識と会話」と呼ばれる決定的な試練として小達人5=6と対峙します。婚礼を終えた達人は、やがて母、最初のヘーとなるべく深淵を超えます。深淵を超えた場所にある最初のセフィラ、ビナー、又はA∴A∴で「ピラミッドの都市」と呼ばれる壮麗な神殿で、彼女は沈黙と共に座すことになります。マジスター・テンプリ 8=3である大いなる「母」は、またの名をババロンBABALONといいます。即ち、A∴A∴に於けるババロン BABALON、「緋色の女」とは、クロウリーの、或いは他の魔術師にとっての性魔術のパートナーを指す言葉ではありません。ババロン (神ONの門)とは、正しく深淵を超えたマジスター・テンプリ8=3以外の何者でもないのです。彼女は聖杯に捧げられた聖人の血に酔いしれ、緋色に染まります(緋色の女)。この場合、血は魔術師の「生命」、そして献身を表す為の比喩として用いられます。

大いなる「母」BABALONは、ここで眠れる古き者、「父」ヨッドにして獣を目覚めさせます。大いなる「父」、コクマーはこれにより覚醒し、伴侶ババロンBABALONと結ばれます。この第二の婚礼により、王と王女は一つとなり、統合(一) ケテルへと回帰します。従って、クロウリーが「愛」の完全なる数学的表現と呼んだテトラグラマトン、ヨッド・ヘー・ヴァウ・ヘーの術式とは、この二重の婚礼を経た統合を示唆しています。ここでは、「娘」ヘー → 「息子」ヴァウ → 「母」ヘー → 「父」ヨッドへと「生命の樹」を遡るプロセスが見て取れます。アレイスター・クロウリーは、『虚言の書』の第三章にこう書いています。

“「男」は「女」との結合を喜ぶ。「女」は「子供」との分離を喜ぶ。
 A∴A∴の「兄弟たち」は「女」である。A∴A∴の志願者たちは「男」である。”

A∴A∴のニオファイト1=10は、「女」です。そして聖守護天使との婚礼の後、深淵を超えたマジスター・テンプリもまた「女」です。この「母」はまたクロウリーによって専門用語で「満ち足りた女」と呼ばれています。そして「ババロンの星」と呼ばれる七芒星は、A∴A∴の印章の中心に描かれることになりました。何故ならば、それは大作業 Great Workの大印章でもあるからです。「ババロンの星」は、明らかにクロウリーが所属していた「黄金の夜明け」団の小達人の地下納骨所の床に描かれた七芒星がそのルーツとなっています。またBABALONの数値156にまつわる話も含め、以前私は『ババロンの星 7×7の神秘』と題された魔術講義で存分に解説を加えました。J. ダニエル・ガンサーによれば、達人の地下納骨所はティファレトから、ビナーに移動し、地下納骨所は、聖人達の聖墓になったということになります。彼の主張によれば、L.V.X.の術式で、この墓を開くことは不可能で、その為には彼がアイオンの中軸術式と定義したN.O.X.の術式が必要です。そしてこの術式は、「消滅 Annihilation」と大いに関連しています。N.O.X.のゲマトリア数値は210で、この数字は「2 二元性」→ 「1 統一」→ 「0 消滅」の一連のプロセスを表象しています。従って、N.O.X.の術式は、A∴A∴の秘儀参入の過程と同定しても特に問題はありません。

では、このN.O.X.の術式(Panの夜)という観点から、J. ダニエル・ガンサーが定義した秘儀参入の過程「死 / 生 / 誕生 / 妊娠 / 受胎 / 統一化 / 無化 」を確認してみましょう。A∴A∴の最初の参入は、オシリスの死の祝祭から始まります。死は新しい生への出発点でもあり、オシリスは地下世界を旅し、やがて地平線から上昇する太陽と同一化されます。深淵に至った志願者は、A∴A∴で「深淵の赤子」として知られる位階に於いて自己を放棄します。赤子は、自己を放棄した純粋無垢な新生児であり、その誕生から更に回帰の径を辿り、やがてヌイトの子宮たるビナーにおいて受胎します。再生したマジスター・テンプリ8=3は、「母」(「女」は「子供」との分離を喜ぶ) として「父」と合一し、虚無へと回帰し、消滅します。この有から無への回帰が、大作業の長き過程であり、魔術師はやがて「なにものでもない」ものになって永久を知ることになります。いずれにしてもこの最後のフェーズは、言語を超えた世界であり、それを描写する術を持ちません。「なにものでもない」ものは虚無ですらなく、本当は消滅ですらあり得ません。それは言語という深淵下の思考の構造物では、何ら表象し得ないものなのです。

アレイスター・クロウリーは、明らかに「創造」という人間の無限の可能性から、神とは即ち人である、と公言してやまなかった人物です。彼の悪魔主義的口上も含め、その言論と著述は人々に止まることのない誤解を与え続けてきました。私が過去開催した『Magnum Opus』(大阪と東京の二回開催)という講義では、クロウリーが述べる「神」という概念が「人格神」では在り得ないことを繰り返し述べてきました。
http://d.hatena.ne.jp/HierosPhoenix/20130323
http://d.hatena.ne.jp/HierosPhoenix/20140505

兄弟エイカドが発見した『法の書』の鍵は「AL」= 神と「LA」= 否が31という同等の数価を持つという事実でした。”神とは宇宙で唯一無二の根本原理であると同時に「いかなるもの」でもない。” ” The God is not Not is Not the Not God. Beyond the concept of God! 神は否にあらず、は神ならぬものにあらず。神の概念を越えよ!”。これらが、私の神に対する主要なメッセージでした。排他的一神教の起源は、北西セム語で神を表す普通名詞 AL に由来します。ALとは正に神そのものを指す言葉でした。またALは、フェニキアの神話では神々の父で世界の創造神=最高神を表す固有名詞です。ALは、イスラエルから見て南方の嵐の神で、『出エジプト記』と共にイスラエルの神となります。この”異教徒は皆殺し” の嵐の神は、やがてヤハウェとなり、人々にこう語りかけます。”わたしはヤハウェ、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した、あなたの神である” (出エジプト記)

この最高神は、やがてキリスト教徒にとっての絶対なる父なる神となり、イスラム教の絶対神アラーとなるのです。排他的一神教は、この「人格神」によって絶対化され、やがて世界を争いで覆い尽くすことになります(勿論、美徳も数多あるのは理解しています)。キリスト教原理主義の厳格な家庭で育った成人後のアレイスター・クロウリーは、この絶対神が神官と民の理想投影によって構築された虚像であることを深く理解していました。彼は当時の多くの欧米人がそうであったように東洋の仏教の教義に畏怖し、また感嘆したのです。A∴A∴の大作業は、実はブッダが説いた「現法涅槃」と大差ありません。即ち、「現生において涅槃した人々」を肯定することは、クロウリーのセレマの法の根本にあった原理です。「人間以外に神はなし」と述べるクロウリーの脳裏には、醜悪な人格神を肯定する意図は微塵もありませんでした(それでいながら、誤解を蒙るような言動を絶えず繰り返していたのは事実です)。

5世紀頃のシリアの神学者、ディオニシオス・アレオパギテースは神性原理について、こう語ります。

”それはすべての単一者を一にする単一、存在を越えた存在、非知的知性、語られざるロゴス。非言語、非知性、非名称。いかなる存在者として在るのでもない。万物にとって、その在ることの原因であるが、自らはすべての存在の彼方にあるものとしても非存在である。”『神名論 第一章 第一節』

"いかなる場所の中にもなく、見られもせず、感覚的接触もない。感覚することも感覚されることもない。肉体的情欲に惑わされて無秩序や混乱に陥ることなく、感覚な偶発事故に圧倒されて無力になることもない。光に欠けることなく、変化・腐敗・分割・欠乏・流転を蒙ることもない。そしてその他感覚につきもののいかなるものであることもなく、またそれらを所有することもない。"
『神秘神学 第四章 』

“とにかく原因については肯定も否定もない。それに続くものについては我々は肯定したり否定したりするが、原因そのものについては肯定も否定もしない。なぜならば完全で単一な万物の原因はすべての肯定を越えているし、他方すべてのものから端的に解き放たれて万物の彼方にあるものの卓越性は、すべての否定を越えるからである。”  『神秘神学 第五章 』

また中世ドイツ(神聖ローマ帝国)のキリスト教神学者神秘主義者、マイスター・エックハルトは、こう述べています。

“もし私が存在していなかったらば、「神」も存在しなかったであろう。神が「神」である原因は私なのである。もし私が無かったら、神は「神」でなかったであろう。”

“汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。さすれば、汝の自己と神の自己が完全に一つの自己となる。神と共にある汝は、神がまだ存在しない存在となり、名前無き無なることを理解するであろう”

“神でもって神の他にお前が求めるものは、それがなんであろうと、利益であれ報酬であれまた内面性の深みであれ、すべて空無である。お前は無を求めている。その故に無を見出すのである。お前が無を見出すのは、ただ、お前が無を求めているからに他ならない。すべての被造物は一つの全くの無である”

「無」の概念は、『法の書』の第一章46節にも登場します。

“無はこの法における秘密の鍵の一つなり。61とユダヤ人達はそれを呼ぶ。われはそれを8、80、418と呼ぶ。”

いずれにしても、「無」であれ、「有」であれ、言葉によって表現された「それ」は、「あれ」との相対性のみによって理解されます。「なにものでもない」神は、充満し、且つ空虚なる「なにものか」と仮定するのが限界となります。

私が開催した講義『Magnum Opus』の最後で、私が大作業の目標を「神との合一」であると定義していたことをご記憶の方もいらっしゃると思います。これは大作業の過程を語る上では、極めて一般的な概念です。しかし、それに続けて、私はこう述べました。「それは即ち、サンサーラの輪を断ち切ること、”人間として二度と生まれてこない”ことです」と。

この言葉の意味は最早、明確でしょう。人間以外に神はいないのですから。

A∴A∴が魔術と神秘主義の両立を図ったのは必然といえます。魔術は、深淵を超える際には、何の役にも立たないからです。コロンゾンは、沈黙のみによって退散し、コロンゾン調伏 = 降魔成道は達成されるのです。比喩的には、「此岸から彼岸へと横断」したマジスター・テンプリは、ピラミッドの都市において「なにものでもない」存在 (クロウリーの体系ではNEMO、その意味はNo Man)として美しい花を咲かせるのです。

Love is the law, love under will.