Path of Magician

Do what thou wilt shall be the whole of the Law.

魔術師とは意志と想像力を駆使し、世界を変化させるクリエイターであると同時に内なる探究の旅を続ける冒険者でもあります。魔術師は、広大で未知なる宇宙、そして自身の魂の本質を理解するために、象徴的縮図としての「生命の樹」を活用しながら、それを長い旅路の地図として用います。魔術師の径は永久への憧憬に対する霊的帰巣本能によって初めて開かれ、自分自身の真の意志の発見とその実現に向けて緩やかにその歩みを開始します。しかし、魔術師の径は起伏に富み、峻烈な壁と多くの落とし穴にみちています。20世紀最大の魔術師アレイスター・クロウリーは、その径を可視化し、明確化するために様々な象徴と寓意、思考の糧と試練にみちた一連のイニシエーションを提案しました。その根幹にある哲学は、イニシエーションを通じた人生の旅路において、新たな知恵を獲得し、自分自身を刷新するための生き方を学ぶというものです。秘密の知識やサインの伝達は、その一要素にはなり得ても、決してその変革の主軸にはなり得ません。

だれもが瞬間的に経験したことのある自由への渇望、人々が求める自己変容のための柔軟な哲学、新しい神学を打ち立て、恍惚の門を押し開くための学び。その目的を定めた熱望者のために『法の書』は”罪の言葉は抑制である”と私たちに問いかけます。自由とは、気まぐれで散発的なOpusの累積の途上にはなく、フォーカスされ、意志された孤独な自己分析と戦闘の先に横たわっています。マスター・セリオンが述べる通り、意志とは即ち法であり、その根本的性質は愛です。”愛は法なり、意志の下の愛は”とは多義的な意味合いを含んだ人生の金言でもあります。マスター・セリオンは、汝の意志を見出し、一点集中と超然と平和とともにある意志によって、それを為せ、と厳命します。とはいえ、これは人々を途方に暮れさせるに十分な厳格な命題です。

魔術師は現代社会の画一性と価値観に抗う反逆者にして破壊者であり続けます。その一方、彼は一つ一つの煉瓦を積み上げ、天を目指す神殿建設者でもあります。黄昏の回廊をくぐり抜け、魂の霊薬を抽出する現代魔術師は、第2の身体を駆使し、視えざるものを可視化し、世界を刷新します。魔術師の径とは、永久へと続く驚嘆の旅路なのです。


その一方で、人はなぜ魔術師の径を目指し、そこを歩もうと欲するのでしょうか? つまり魔術師を目指す目的はなにか? という単純な問いかけです。この問いは単純すぎるがゆえに、答えるのがとても難しいかもしれません。私自身もそうでしたが、ほとんどの初心者はその問いに対する明確な答えをもってはいないのです。とはいえ、それが悪い、というわけではありません。魔術師の径という未知の道程との出会いは人それぞれですが、ほとんどの人たちは、それを明確に定義できないまま、この径に踏み込むのです。

魔術師を志す多くの人たちはすぐに途方に暮れてしまうかもしれません。彼、または彼女はいったい何からはじめればよいのでしょうか? 魔術の教師はどこにいるのでしょう? どんな本を読み、何を実践すればいいのでしょう? また同好の志、仲間と出会う方法はあるでしょうか? 魔術を教えてくれる専門団体とは、どうやって連絡をとればよいのでしょう?
私の個人的な体験においては、まず真っ先に魔術の師匠を探し、然るべき団体に入団を乞うことから始めました。またある人は、先に入手し得る限りの専門文献を読み漁り、十分な情報をかき集めた上で、次の行動について熟慮しようとするでしょう。

魔術結社を探し当て、その門戸を叩くことに関しては、以前「魔術結社への参入に際して」という日記に綴ったことがあります。
http://d.hatena.ne.jp/HierosPhoenix/20150417
その中で、私はこう書いています。「ところで魔術結社への参入を希望するということに本当に意味があるのでしょうか? この問いに答えることは実はそう簡単なことではありません。なぜでしょう? もしその問いに対してシンプルに答えるとするならば、「魔術の実像を描けない志願者は、容易に落胆し、容易に結社から去る」という事実を挙げることが出来ます。実際、そのような場面を沢山見てきました。」さらに私は次の文章で日記を締めくくっています。「そして最も重要なことは、常に作業に貪欲であり続けることです。維持する力は、なににも増して強大な意志の技です。魔術の最大の才能とは「常に自分を燃え立たせる能力」です。常に自分自身を鼓舞し、熱望を抱くことが出来なければ、すべての魔術的行為はいずれ空虚なものになっていきます。誰も他者に修行を強要することが出来ないがゆえに、個人が抱く大望の大小がその人の魔術的能力を決定します。」


ある種の人たちにとっては、魔術結社の門戸を叩くこと自体が大きなチャレンジかもしれません。そしてたとえ結社に入れたとしても、ほとんどの人たちは修行を継続することができないのです。「魔術」とは方法であり、私たちが達成すべき目標は「大作業 Magnum Opus」として定義されています。錬金術における「大作業」は卑金属を金へと変成させる一連のプロセスの総称、または「哲学者の石」の完成を意味します。またJ.ダニエル・ガンサーはA∴A∴の「大作業」の過程をシンプルに3つに分割しています(それはA∴A∴の3つのOrderにそれぞれ対応しています)

●第一段階ニグレド黒化: 魂の暗き夜、腐敗による解体、または破壊 第1団 G∴D∴
●第二段階アルベド白化:霊的啓発、腐食と減衰からの解放、浄化 第2団 R∴C∴
●第三段階ルベド赤化:神への昇華、統一、完成、哲学者の石、沈黙 第3団 S∴S∴

またガンサーは、この大作業の過程を「回帰の大いなる径」と命名しました。その過程は、秘儀参入の道程、すなわち「死 / 生 / 誕生 / 妊娠 / 受胎 / 統一化 / 無化 」として定義されています。参入者はまず死せる神オシリスとして祝祭され、人生の径を歩みます。やがて彼は深淵において赤子となり、さらに宇宙的な子宮に回帰し、その先にある原初のエデンに向かってさらなる回帰を果たすのです。この径は錬金術的な破壊と統合、そして神秘主義的な無化への変成のプロセスです。


錬金術の素朴で、基本的なイデオロギーはこうです。
宇宙はすべて単一の聖なる原因より流出している。「全」= 「一」。
振動率の低い粗雑な物質を変性し、その振動率を高める技法を適用し、卑金属(低振動) を金(高振動) へと変成させる。また哲学者の石に含まれるPANACEA (宇宙の霊薬) を抽出し、不老不死を獲得する。

もちろん、物理的な銅を金に変成させることは不可能です。中世の難解な暗号文書と美しくも蠱惑的な版画の数々は錬金術に対する夢想と憧れの産物なのでしょうか? 一方、20世紀以降の近代魔術の歴史において、彼らはどのように錬金術へアプローチしたのでしょうか? 代表的なものはおおよそ下記のようになります。


1. ユングに代表される心理学的アプローチ: 個性化のプロセス
2. 実験工房における実践的アプローチ: 植物、鉱物、金属からエッセンスを抽出
3. Psycho Spiritual Yoga : 精神と肉体の統合。哲学者の石を脳内に生成
4. アレイスター・クロウリーの性魔術的アルケミー: OTO (Fraternitas Lucis Hermeticae)

ユングは難解な錬金術の暗号が表象するものこそ個性化のプロセスであり、いわば魂の精錬による人間性の完成を表していると考えました。若き日のイスラエル・リガルディーが『Philosopher's Stone』を上梓したとき、彼の考え方はユング同様に、心理学的な解釈に傾いていました。ところが、そんなリガルディーの錬金術理解を一変させた人物が現れます。1911年生まれのFrater Albertus Spagyricus、ことアルバート・リチャード・リデル博士その人です。米国のソルトレイクシティーに「パラケルスス調査協会」を設立したリデル博士は、そこで実験工房型の錬金術の研究と指南に従事します。「パラケルスス調査協会」を訪れ、リデル博士と議論したリガルディーは実験工房での錬金術実験を見学し、大きな衝撃を受けます。それによってリガルディーは錬金術に対するアプローチを一変させます。晩年の彼は、正に実験工房型の錬金術の虜となってしまったのです。
Psycho Spiritual Yogaは7つのチャクラと独特の象徴を用いた瞑想をそのベースに置いていますが、その技法はジョン・ウッドロフ卿のタントラ・ヨガ的著作『The Serpent Power』に強い影響を受けています。アレイスター・クロウリーの性魔術的アルケミーはOTOの第7位階以上で教示される一連の技法を土台として、20世紀後半に一気に有名になった、いわゆる性魔術の体系です。


A∴A∴の「大作業」における3つの過程、ニグレド黒化/ アルベド白化 /ルベド赤化はそれぞれ「聖守護天使のヴィジョン」/ 「聖守護天使の知識と会話」/ 「深淵横断」という3つの試練の達成を要求します。私は個人的にこの錬金術的作業に従事し、その径の途上にいますが、あらゆる魔術団体は団の作業と目的を定義し、その径を目に見える形で提供しています。そして団に参入した魔術師たちは、団で規定されたOpusに従事し、魂の精錬作業に没頭することになります。とはいえ、ここに問題が潜在しています。団に入団するにしろ、ソロとして教程書に従って学習・実習するにしろ、ほとんどの志願者たちは自らのモチベーションを、そう長くは維持できないという問題です。なぜでしょう?

魔術の訓練とは、あなたの日常に従来、「非日常的」であったものを持ち込むことを意味します。日々の生活の中に唐突に浸入してきた新たな生活習慣は、長年培ってきたあなたのリズム、思考、感情、行動に少なからぬ影響を与えることになります。それらの影響が、新たな刺激となって魂の変性の第一段階が開始されるのです。とはいえ、人間はそう簡単に今までの自分と決別することは困難です。社会生活においては、誰でも大切な人間関係があります。緊張と緩和、社会生活の中の厳しさと、それを癒す親しき人たちとの談笑。それが大切なものであることは確かです。しかし、ここで立ち止まって考えてみることが重要です。この世の中には魔術訓練から逸脱させるための誘惑がいかに多いことか! クロウリーは人類の進化の最大の障害物は、一言で表現すると「ノイズ」であると断言しています。そしてこの厄介な「ノイズ」があなたの周囲に渦巻いていることを、まずは最初に認識することが重要です。訓練をおざなりするための理由はいくらでもあります。基礎訓練の代わりに寝そべってテレビや映画を観ること、親しい友人と週に3回飲み歩くこと、新刊の小説を読み耽りたい願望、ギャンブルやドライブ・・・あなたの周りは魔術訓練を無化してしまうもので埋め尽くされているのです。魔術の才能とは、優れた視覚化能力でもなければ、類まれな知性の閃きでもありません。「意志の持続力」なのです。あなたが最初に抱いた大望を維持し、自分自身を鼓舞し続けることが出来る才能こそが重要な力なのです。

“今こそ「だから」とその同類に呪いをかけよ!”
“ 願わくは「だから」が永遠に呪われんことを!”
“もし「意志」が立ち止まり、「だから」を召喚しつつ「何故」と叫ぶならば、「意志」は停止し何をも為さぬ”
“もし「力」が何故と問うならば、「力」は「弱き者」となる”
                    『法の書』 第二章 28〜31節


単純で退屈な魔術訓練のつまらないことといったら!
すべての志願者が訓練の初期に抱く正直な感想こそがそれです。「なぜ?」を自分に問いかけることは決して悪いことではありません。しかし、訓練をサボるための「なぜ?」は、あなたの意志を減退させ、やがては作業の放棄へとつながることを十分にリマインドしなければなりません。魔術の入門書の多くが、魔術の実践的側面についてコメントするとき、最初に決まってリラクゼーションについて触れるのには理由があります。リラクゼーションとは、第一に、魔術的意識へと埋没する際の不可避の前提となります。リラクゼーションとは肉体と精神双方のリラックスを表し、それは相互に関連しあってしています。精神のリラクゼーションを抜きにして肉体の緊張を緩めることは困難であるに違いありません。また仕事や学業、人間関係の軋轢に心惑わされていては、肉体の隅々の筋肉は硬直してしまうでしょう。この硬直は意識と無意識の門、その境界線さえも硬く閉ざしてしまうことがあります。つまり、精神の緊張は肉体の緊張を生み、より深い無意識領域での精神活動を拒否し、現実社会での活動の準備のために肉体を臨戦体制のままブロックしてしまうのです。心身の相関関係を鑑みれば、肉体だけに的を絞ったエクササイズは大抵の場合、効果を得るまでに時間がかかります。したがって重要なことは、まず精神を解放し、喧騒と反射いう名の戦闘態勢から脱却すべく、肉体に指令を下すことから始めなければなりません。

その前に、実践魔術において果たすリラクゼーションの意味を考察してみましょう。魔術の行為の多くは実のところ、現実社会における活動とは別のスペクトルに意識の焦点をあてています。あるいは日常生活におけるそれとは異なった脳の領域にアプローチする必要があるのです。もちろん、修行を推し進めた経験豊かな魔術師ならば、特にこれらの意識のスペクトルの区分を気にかけることもなく、ごく自然に適切な能力を駆使することができます。というよりもこれらの意識のスペクトルの区分や階層は徐々にとり払われて、いついかなるときもマジカルでいられるようにすらなるのです。いずれの場合でも、魔術的オペレーションの主導権を掌握しているのは、あなた自身です。他人の決裁を仰ぐ必要はありません。あなた自身が世界の中心に座し、あなたの内面に眠る小宇宙と対面し、探索し、制御する者になる必要があります。この場合、必要な能力はスムーズに魔術的意識を喚起し、象徴言語を把握する為の直観力を呼び醒まし、異世界の門を開く為の第一段階としてのリラクゼーション作業です。つまりそこから魔術作業が始まるのです。

したがってリラクゼーション作業そのものは、異世界への門となることに注目しなければなりません。この前提作業抜きには魔術作業自体が成り立たなくなると認識することも重要です。また、ヨガの体系によれば、肉体が真にリラックスした状態に移行すればプラーナはイダやピンガラではなく、スシュムナに直接流れ込み、火の蛇クンダリーニを活性化する、と指摘しています。この事実は呼吸とリラクゼーションが相互に関連していることを私たちに教えてくれます。また、瞑想や儀式作業、アストラルの門をくぐるに際してもリラックスは、その基礎作業となります。

魔術師の径への参入を希望し、その峻厳なる道を歩み始めた冒険者の多くが道半ばで径から離脱していくさまを私はたくさん見てきました。魔術結社に入ること、あるいは魔術の修行を開始することは、そんなに難しいことではありません。繰り返しますが、達成へのモチベーションを維持し、自分を鼓舞し続けることこそが難しいのです。私は、自分自身の経験から魔術師の径を歩む上での重要な留意点を下記に述べたいと思います。それは4つの事項と1つの重要な質問からなっています。


◆目的を定めること
◆目的を達成するためのPathを定めること
◆具体的な計画を作成すること
◆生活基盤の安定
◆幸福であるかどうか?


少し解説が必要でしょう。まず「少年よ、大志を抱け この老人の如くBoys, be ambitious like this old man」と述べた米国の教育者ウィリアム・スミス・クラークは偉大だったということです。魔術師を志願する者は、大志を抱くべきです。そしてなにを目指し、どこへ向かうのかを明確に知っていなければならないのです。これは魔術修行の目的を明確化し、ゴールを定めることを意味しています。まず目的が不明確だと、修行者のPathそのものものも曖昧になり、前進は難しくなります。もちろん、魔術の道に入りたての初心者が、いきなり「深淵を横断」することをその目的とすることは馬鹿げたことのようにも思えます。しかし、魔術師の目的は具体的である必要があります。ただ、もし、あなたの目的が「惑星の護符を作成し、財を得ること」だったり、「大天使を召喚し、恋愛を成就させること」であったならば、あなたの魔法修行は3ヶ月と続かないでしょう。私たちはなによりも長期間にわたって自分自身を鼓舞し続けることができる大志を抱く必要があるのです。テクニックや方法論を越えた無窮への憧憬を摘み取り、その衝動を「大作業」への邁進の燃料として燃え上がらせなければならないのです。多くの志願者たちが脱落していく最大の原因は、無目的にその径に踏み込み、自分を律することの意味について無知であり続けることによって顕在します。したがって退屈で緩慢な基礎作業にすぐに根を上げ、失望してしまうのです。躊躇する必要はありません。大胆にあなたの大志を明言してみて下さい。さて、あなたの魔術の目的はなんでしょうか?

目的が明確になったとき、はじめてゴールに到達するための道のりが、おぼろげながら見えてきます。その径を想定し、把握し、視覚化することに果敢に挑戦して下さい。あなたの大志を実現するための、あなたにとって最善最適の径を見出すことはできるでしょうか? またその径を提供してくれる団体はみつかりそうでしょうか? しかし、ことはそう単純ではありません。この最善の径を発見するまでに数年かかることはよくあることです。自分の目的に則した訓練体系、実践カリキュラム、団の構造など、それらについて幅広く情報を収集し、ゴールまでの長い道のりを想定するのです。この点、A∴A∴は非常に明確です。位階構造、実践カリキュラム、団の指南書などはほぼ公刊されており、またネットでも簡単に手に入ります。魔術師の径を歩むことは、書籍の中の誰かの出来事ではありません。それは、あなた自身のあなたのための固有の径なのです。

続いて、魔術師は目的達成のための計画を立てます。これは多くの魔術修行者がもっとも苦手とする作業です。目的が定まり、その径が想定できたならば、それを自分の人生上に計画としてあてはめるのです。曖昧で、恣意的な行動を避け、意志の力とともにある計画に則って径を邁進するよう努力するのです。目的達成のための計画は魔術師が径を踏破するための必須の要素であり、計画不可能な目的は決して実現しないのです。たとえば、あなたが、とある団のプロベイショナーとして迎え入れられたとしましょう。その教程を終えるためには、おおよそ9カ月かかるとしてみましょう。あなたは、その教程を計画通り9カ月間で修了すべく努めるべきです。その教程を1年半かけて修了することを、私は決してお勧めしません。もちろん、人にはそれぞれ個人のペースがあります。また9カ月間で教程を終了することは、必須条件ではないでしょう。実習に疲れたならば、中休みし、気持ちをリフレッシュすることも大切です。ただ私は、そうして魔術の径から結局は離れていってしまった多くの人たちのことを知っています。「魔術修行にノルマはない」。確かにそうでしょう。ただし、一旦ペースを緩めてしまい、自分を鼓舞することを忘れてしまったら、あとはお決まりの妥協への道をまっしぐらです。あなたは毎月提出する魔法日記を放棄し、机の上にあった団のテキストを引き出しの奥深くに仕舞いたくなるでしょう。
あなたは、いつプロベイショナーを終了し、いつニオファイトへと進み、いつ内なる団に迎え入れられるのでしょうか? あなたは、そのスケジュールをあなたの人生の一部として設計すべきです。達人とは、すべからくそれが可能な人たちのことをいうのです。繰り返しますが、計画を立て、それに基づいて行動することは、多くの魔術修行者たちがもっとも苦手としている作業なのです。

さて魔術修行の基盤は、修行者の安定した社会的立場の確立によってはじめて機能します。社会生活をおざなりにする修行者はむしろ自由を失い、長期にわたる魔術師の径を踏破する基盤を失ってしまいます。これが4つめの事項「生活基盤の安定」です。これは自由をはき違えてはならないという警句でもあります。マクレガー・メイザースアレイスター・クロウリーはさておき (彼らはまるで憑りつかれたかのような魔術の天才たちであったわけですが)、私は修行過程の進んだ現代の達人たちが社会人としても、盤石な立場を築いていることをよく知っています。不安定な経済状態は生活基盤の安定を阻害し、修行に没頭する魔術師に障壁をもたらすでしょう。「生活基盤の安定」はマルクトの神殿の完成を補完し、あなたに自由に飛翔するための翼を与えてくれます。この事項は決して軽視してはならない最重要事項といえるでしょう。

そして私は、最後にあなたに問う事になります。あなたは、いま幸せでしょうか?
もしあなたが不幸の只中にあるならば、魔術修行は苦痛以外のなにものにもならないでしょう。儀式は機能せず、瞑想は頓挫し、魔術師の径は崩壊してしまいます。私は、魔術に関心を抱く志願者のほとんどが、精神に何らかの問題を内在させていることを熟知しています。彼らは心の闇を直視する恐怖と現実回避のために魔術の世界に救いを求めています。しかし、自発的な規律と制御を要求する魔術師の径は、「癒し」よりもむしろ「破壊」をもたらします。もちろん、それは再生のための不可避の創造的破壊の作業ではありますが。
もし、あなたが今、幸せでないならば、魔術師の径に踏み込むことは止めておいた方がいいでしょう。反対に、もしあなたが、人生の荒波の中で心を強く保持し、小さな幸せに対する感受性に敏感であるならば、あなたの径は、その遠い道のりを照らしだす力を持っているといえます。そう、魔術師は幸せでなければならないのです。

“ 汝ら一同、覚えておくがよい。存在は純粋なる喜びであるという事を。全ての哀しみは影の如きものにすぎぬという事を。それらは通り過ぎついえるものであるが、留まるものもあるという事を。”
『法の書』 第二章 9節

「大作業」に対して真摯に向き合わず、計画と戦略と喜びを持たない志願者たちはすべて魔術師の径を歩むことなく脱落していきました。さてあなたは、あなた自身の魔術師の径とどのように向き合い、またどのようにしてそこに幸福を見出すのでしょうか? いまあなたの眼前には未踏の宇宙と、か細い光の径が横たわっています。あなたに幸福が訪れんことを!

Love is the law, love under will.