涅槃 消滅 そして三角形の中の眼への帰還

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 今回は2019年4月6日に開催されたO.T.O.東京シンポジウム「験」で実施した私の講義の内容をアップいたします。なお、一部加筆修正しております。



涅槃、消滅、三角形の中の眼への回帰

 

   汝の意志することを行え、それが法の全てとなろう

 

 まず、最初に今日のこの講義の機会を与えてくれたニヒル・オアシスに感謝いたします。今日は私にとって素晴らしい機会です。私はここにいる皆さんと私の考えを共有したいと願っています。 しかし、私はこの講義の冒頭で私のアイデンティティーを明確にしたいと思っています。というのも、今日、私はちょっと奇妙なことを皆さんにお話しすることになるかもしれないからです。 私はこの30年余りのあいだ、カバラ、タロット、儀式魔術、ヨガの瞑想や秘教的なシンボリズムなど、主に西洋式の魔術と神秘主義を複数の魔術結社で学んできました。

 私は1904年にアレイスター・クロウリーが受け取ったとされる『法の書』に触発されて魔術と神秘主義の探究を開始しました。当初、私はまずO.T.O.への参入を求めました。しかし、残念ながら、すぐには参入は叶いませんでした。

 私はまず近代的で典型的な西洋スタイルの魔術、そう「ヘルメス的結社黄金の夜明け」団にその基礎をおく体系から私の旅を開始することを決めました。 そのシステムは合理的で穏健であるだけでなく、効果的なシステムでもありました。

 私はその体系に夢中になりました。同様にそれは若き日のアレイスター・クロウリーが学んだシステムでもありました。 ある時期、私は「黄金の夜明け」団の完全な神殿をここ日本に設立しようとしたことさえありました。私は南半球に住む高名な「黄金の夜明け」魔術師と3年間にわたり文通し、熱意とともにそのシステムを学習しました。

 もちろん、私の心はセレマやニュー・アイオンの概念、アレイスター・クロウリーに惹きつけられていたことは確かです。ですが、私の旅は、私が当初望んだ道とはいささか異なる道を歩むことになったのです。

 なぜ、私は「西洋のスタイル」を選択したのでしょうか? その問いに答えることは、とても難しいことです。  

 ここで私の個人的な体験を語りましょう。私はそれについてすでにいろいろな人に話しているので、もしかしてあなたはその話を聞いたことがあるかもしれません。いずれにしても、それは30年前に起こりました。 ある日、私が懇意にしていた友人が、ちょっと奇妙な依頼をしてきました。

 その依頼とは、とある本を読んで、その内容について解説してくれないか?というものでした。彼女によれば、その本は本物の悪魔主義者が書いた「呪いの本」だというのです。しかし、それはまるで古色蒼然とした秘密の暗号文のような難解な代物だとのことです。

 私はミステリー小説が大好きでしたし、私にはその謎が解けるかもしれないという何らかの確信がありました。彼女は、私を書店へと連れて行き、問題のその本を購入しました。それが『法の書』の翻訳本でした。  

 私は喜び勇んで本を持ち帰ると、本の封印を破りました。そう、著作権を無視して勝手に出版された『法の書』の翻訳版には驚いたことに注意書きを記した封印がしてあったのです。なんでも封印を破った人たちには9ヶ月以内に、なんらかの災厄が降りかかる可能性があるというのです。

 うむ、この本は私を攻撃し、不幸をもたらすつもりなのか? 私が知る限り、私は「正義」の戦士を自負していましたので、不道徳極まりない悪魔主義者が書いた本にひるむつもりなどありませんでした。 あとで分かったことですが、それは出版社が考えたナンセンスなギミックでした。

 
 それは難解な本でした。私はまったくといっていいほどそれを解読することができませんでした。それは狂人によって書かれた荒唐無稽な散文詩でした。
 私はすぐさまその本を閉じました。 別の日にまた暗号解読を試みました。しかし、それが成功することはありませんでした。私は失望せざるを得なかったのです。

 ある日、突然その劇的変化が到来しました。 眠りに就く前、私はベッドの中で『法の書』を読んでいました。その本は相変わらずただの暗号文でした。眠りにおちる直前、私はその本を閉じました。 そして浅い眠りにおちたのです。

 
 私は静かに夢の中で目覚めました。 私の眼前には無数の星々がきらきらと輝いていました。 私は広大な夜空を見上げながら、中空を浮遊していました。

 星々の美しさたるや、この世のものとは思えないものでした。
私は夜空を漂いながら、私自身の存在を完全に忘却しました。
やがて私の顔の上に壮麗な夜空から甘酸っぱい雫がふってきました。
雫は私に究極の恍惚をもたらしました。

 それは私が未だかつて体験したことのない至高体験でした。
同時にこの究極の意識状態は強烈な郷愁、懐かしさを帯びていました。
そう、私はたしかにこの恍惚を知っている・・・という感覚です。

 透き通った空気と心地よい風が私を包みこみました。
私は制限のない夜空の恍惚そのものとなりました。
私は言葉を忘れ、あらゆる概念から解き放たれ、そして私自身の存在すら忘却しました。私は恍惚そのものであり、「虚無」へと溶け込んでしまったのです。

 私には、もうなにも考えることができませんでした。
そう、私はこの二元性の世界から消え失せたのです。

 私は遠くに流れ星をみました。 私は彼方に輝く街の灯をみました。
私は少しずつ現実世界へと戻っていきました。

 私はその恍惚が収縮すると同時に実際に目覚めました。
私は、その究極の状態と至高体験を喪失したのです。
私はとても残念に思い、そして悲しい気分にみたされました。
私は目覚めると同時にその天国を失ってまったのです。

 なぜこのような究極の体験をしたのかは説明不可能でした。とはいえ、その体験は私に『法の書』を理解するための重要な鍵を与えてくれました。

われは地上においては想像もつかぬ程の喜びを与える。生ある間に信仰ではなく、確信を死の上に。言葉では言い表せぬ平穏、静寂、休息、恍惚を。われは如何なる生け贄をも要求せず。”                             
                『法の書』第一章58節

 

 そのかなりあと、私は他の『セレマの聖なる書』の素晴らしいほかの文脈を発見しました。

私はあなたを愛する。私は不滅の聖なる雫をあなたへとふり撒く。この不滅は墓所の彼方の儚い希望にあらず。私はあなたに至福の確たる意識を与えよう。

                『ツァダイの書』28-29節

 この体験は私に覚醒をもたらしました。そう、私は自分自身の体験を天空の女神ヌイトの偏在の体験だと理解したのです。
 その貴重な体験こそが、私をして「西洋の道」へと誘ったのです。そしてこの体験こそが今日、私がお話しようとしている講義の内容と関連しています。それは「大作業」のゴールについてです。J・ダニエル・ガンサーはそれを「無化 Nulliversion」と呼んでいます。

 私は1995年にO.T.O.にイニシエートされました。そして私は自身の支部の名前を「Sky Goddess Nu」キャンプと名付けました。それはまだ魔術を学び始めた最初の段階で私が体験した究極の恍惚体験に由来していることはいうまでもありません。

 1995年当時、私はオカルティズムを学び始めて6年が経過していました。
その段階においても私はO.T.O.以外の魔術団体に所属していて「黄金の夜明け」団のシステムと深く関わっていました。
 しかし、ある瞬間から……私はセレマのみに集中し、情熱を捧げるようになりました。とはいっても、ここでその間の私の紆余曲折について語る時間はありませんが。 現在の私は、ただ「セレマイト」です。
 なぜならば、私はセレマが普遍的かつ包括的な「径(みち)」であることを完全に理解し、それが「汝の意志することをなせ」という言葉によって表現される自由への飛翔を叶える体系であることを理解したからです。

 ところで、私の講義のタイトルはなんだか奇妙だと思いませんか?
まず最初に「ニルヴァーナ」という言葉。「涅槃」はもっとも有名な仏教用語です。
 つづいて「Annihilation」消滅(あるいは無化)という言葉。もしあなたがO.T.O.の位階制度に興味をおもちならば、たとえば『楽々魔術 Magick Without Tears』のような本でその言葉を読んだことがあるのではないでしょうか?

 この言葉は私たちの「聖なる団」の参入システムのなかで、もっとも重要な言葉です。そして最後に「三角形の中の眼」。
 それはいささか曲解されているものの、いまや普遍的なオカルト・シンボルとなっています。この重要なシンボルはまたO.T.O.のトレードマークにも描かれています。そして、それはまたA∴A∴においても極めて重要なシンボルとして登場します。

 

 ですが、私の講義のタイトルは「三角形の眼」への「回帰」です。
それはどこかの「場所」を暗示しているのでしょうか?
それは今日、私が皆さんにお答えしなければならないものです。
 ここで私の講義のアウトラインについてお答えしましょう。 「涅槃」「消滅」「三角形の中の眼」とはすべて同じ概念をあらわしています。順次、それについて説明していきたいと思います。

 
 さて、ここで少し話題を変えましょう。私が所属しているふたつの魔術結社についてお話しさせて下さい。それぞれA∴A∴、O.T.O.と呼ばれている独立したふたつの組織です。

 それらふたつの結社について、とりたてて私がなんらか新しいことを述べたてる必要はないでしょう。それらふたつの結社の独立性、あるいは関連性については既に多くの議論が繰り広げられているからです。
 特に「二重性」として知られる両者の相互関連性は、私たちの分野における新しい流行でもあります。

 私は、これについて少し慎重です。それは有益な学びであると同時に、論争のタネともなり得るからです。しかしながら、それは確かに価値ある実践的ヒントを私たちにもたらしてくれます。
 そう、それはたんに象徴的なものではなく、より特殊なヒントを私たちに与えてくれます。  まず最初にふたつの結社の重要なシンボルについて言及しましょう。ひとつは有名なO.T.O.のトレードマークです。そしてもうひとつはA∴A∴の印章です。

 

 「シジリウム・サンクトゥム・フラタニタトゥスA∴A∴」とは「銀の星の兄弟団の聖なる印章」という意味です。この印章の中心的シンボルともいえる「ババロンの星」が円の中に描かれています。
 七芒星のそれぞれの角にはBABALONの各1文字が刻印されています。そして印章の上部には円と十字架( X )からなるN.O.X.のサインがあります。
 それは特殊用語で「パンの夜」という新しいアイオンの術式を表しています。
中央にあるヴェシカ・ピスキス[中世キリスト教美術の先のとがった楕円形]の周囲には数式が書かれています。 77 + (7+7/7) + 77。
 そこから私たちはババロンのゲマトリア数値である156を獲得します。  

 もっとも重要なことはクロウリーがBABALONという名前を3つに分割して解釈していたことです。BAB – AL – ONに3分割されたとき、それは「神オンの門」を意味します[BAB =門、AL=神、ON=オン]。
 そう、ババロンのひとつの重要な解釈は「神オンの門」です。そして「オン」という言葉は、とある神の名前をあらわしています。クロウリーは『サメクの書』の脚注の中で「オン」のことを「秘中の秘 Arcanum of Arcana」と表現しています。

 
 「銀の星の兄弟団の聖なる印章」は明らかに、バハロンの存在を強調しています。そして彼女のシンボルをその印章の核に据えました。
 ここでA∴A∴、あるいはクロウリーがババロンの性質をどのように解釈していたかを考える必要があります。

 彼女は『法の書』の中で「緋色の女」と呼ばれています。
彼女の性質は、1909年にアルジェリアの砂漠で行われたクロウリーの重要な『霊視と幻聴』のワークにおいて明白になりました。この類まれなる「幻視」の記録によって「聖杯の術式」が明らかとなり、ひとつの魔術システムとして進化したのです。

 この「聖杯の術式」は、「ババロンの杯」という名で知られています。それは志願者の全生命を捧げることを意味しています。比喩的には、志願者の最後の一滴までその血のすべてを聖杯へと注げよ、と表現されます。

 それは「大作業 Magnum Opus」への献身を意味します。
 それは「大作業」の中でも、とくに「深淵を越える」試練と関連があるといわれています。 それゆえに志願者は、自分自身を「大作業」に捧げ、深淵を越えるのです。より秘教的な表現を用いると志願者はパンの夜の下、「ピラミッドの都市」(ビナー)において「神殿の首領」となるのです。

 
 私たちがここで明確にすべきことは、ババロンは「生命の樹」の深淵の帳を越えた最初に位置にあるセフィラ ビナーと深い関係にあるということです。
 ヘルメス・カバラで用いる女王の色階ではビナーの色は黒です。それはまた「夜」の色です。それは知られざる「理解」の理想的世界です。
 それは知性による理解ではありません。それは直感的な理解です。それはまた霊智の聖域とも呼べる場所です。その沈黙の聖域は、A∴A∴の志願者たちの達成の聖域でもあります。
 「銀の星の兄弟団の聖なる印章」の中心にある「ババロンの星」はその達成の証しでもあります。Jダニエル・ガンサーはこう指摘しています。ババロンとは深淵を越えた「神殿の首領」であり、「彼女」はA∴A∴の至高の第三団、「銀の星」の一員です。

 

 私はO.T.O.のトレードマークの中に彼女を見出します。 この発言について、私は説明しなければならないでしょう。

 O.T.O.のトレードマークは主に3つの秘教学的なシンボルの集合体です。
その3つのシンボルとは「三角形の中の眼」、「鳩」そして「杯」ないしは「聖杯」です。
 そのデザインは19世紀後半のフランスのオカルト復興に由来しています。それは基本的にメイソン的なシンボルです。
 「摂理の眼」あるいは「すべてを見通す神の眼」はオカルト、あるいはフリーメイソンリーのお馴染みのシンボルですが、その起源はキリスト教の図像(学)にあります。

 この古典的なシンボルはA∴A∴においても同様に強調されています。
それは聖なる神性、あるいは偉大なる建築者の摂理の眼であり、深淵を越えた「神殿の首領」の見開かれた眼でもあります。
 この覚醒は、ときに「シヴァ」あるいは「ホルス」の開眼ともよばれています。  O.T.O.のトレードマークはまた私たちの中核的儀式「グノーシスのミサ」、「聖なる婚礼 Hieros Gamos」、あるいは「真の薔薇十字術式」の象徴的表現でもあります。

 「鳩」は父なるヨッドの炎をたずさえ、燃える聖杯へと降下していきます。それは外なる「自然」から人間へと向かう力を描いた科学的略図です。それは生殖力、または「創造」の真の力流を私たちにもたらします。その術式こそが「神は人なり、人は神なり」[O.T.O.のモットー]の術式です。

 
 ヘブライ文字のアインは「眼」を意味します。
「鳩」は金星に帰属する鳥で、その意味において私たちは金星が対応するヘブライ文字ダレスを獲得します。
 「鳩」は金星とセフィラ ネツァクに対応します。
「鳩」はヨッドの文字とともに聖杯へと下降していますが、その動きはまさに「生成」を示唆しています。実はそれこそが「グノーシスのミサ」「聖なる婚礼」の奇跡を表しています。
 O.T.O.の伝統に従えば、「生成」が対応するヘブライ文字はヌンです。こうして私たちは、また別のヘブライ文字であるヌンを得ました。そして私たちが得た3文字を続けて綴ってみましょう。

 アイン、ダレス、ヌン。その3文字が表す言葉はODN、すなわち「エデン」です。  3つのヘブライ文字が表す原初の楽園「エデン」はとても興味深い言葉です。
 それは明らかに深淵の上にある聖域です。それはアインとヌンからなるON「オン」という言葉を含んでいます。
 そしてダレスの意味を思い出してみましょう。 それは扉、塔門、そして「門」を意味します。 そう、私たちはここにもうひとつの「神ONの門」、ババロンと出会うのです!  この解釈はA∴A∴とO.T.O.が織り成す「二重性」に関する重要な概念を示唆します。
そう、それはババロンに他なりません。

 
 それは「大作業」における3つの試練の最後の試練を示唆します。
それは深淵の横断です。志願者はそうして「神殿の首領」として誕生するのです。
 そして「深淵の首領」とは、すなわちババロンのことです。 私はここでふたつの結社のイニシエーションのプロセスについて少しだけ触れたいと思います。そのプロセスはA∴A∴においては「大いなる回帰の径」とよばれ、O.T.O.においては「永久の径」とよばれています。

 まず最初にJダニエル・ガンサーが著書『天使と深淵』のなかで定義した「大いなる回帰の径」のプロセスからみていくことにしましょう。
 その径は、私たちが現在いる世界から「虚無」ないしは「虚空」へと遡り、回帰していくプロセスを意味しています。
 それは新しいホルスのアイオンの逆行術式OAIで表される、まさに帰還の径です。

 ガンサーはそのプロセスをこう定義しました。    

死 – 人生 – 誕生 – 妊娠 – 受胎 – 統一化 – 全化 – 無化

 そのイニシエーションのプロセスは、儀式番号671として知られる『門の書』によってオシリスの死を祝祭することから開始されます。
 それはA∴A∴のニオファイトのイニシエーションであり、彼はピラミッドの中で死を体験します。
 志願者はつづくジェレイターの位階において儀式番号120としてしられる『死体の書』を体験します。その儀式の中で志願者は「己自身によって完全となるもの」アサール・ウン・ネフェルとなり地下世界を旅します。
 志願者はこうして人生を旅したのちに深淵の中で自我を捨て去った無垢な赤子として誕生します。志願者は逆転の術式に則って聖なる母の子宮へと回帰します。
 志願者はここで妊娠状態へと逆行します。志願者はそこ(ビナー)で「神殿の首領」となり、パンの下の夜にある「ピラミッドの都市」において「緋色の女」ババロンとなります。

それはまさに「逆行の神秘」です。

  続いて、もうひとつの径であるO.T.O.の「永久の径」について考察してみましょう。それは「大地の人間」とよばれる3つ組みと関連した連続した6つのイニシエーションのことです。
 それはO.T.O.における最初の6種類のイニシエーションであり、なおかつ「大作業」に関する総合的な全体サイクルの表現でもあります。換言すれば、それはイニシエーションの最初の旅となる一巡(サイクル)であり、「誕生」「人生」「死」そして「死を越えた」世界の体験です。

1. 自我は太陽系に惹きつけられる      0°  ミネルヴァル 
2. 子供は「誕生」を経験する        I°   第一位階
3.「人」は「人生」を経験する          II°  第二位階
4. 彼は「死」を体験する          III°   第三位階
5. 彼は「死を越えた世界」を体験する    IV°  第四位階
6. 周期全体は「消滅」へと引き戻される   PI°  完全なる参入者 


 アレイスター・クロウリーは「大地の人間」より上の位階について、こう説明しています。

「人生」に関連する「参入者たちの教え」を、例えほんの概略だけでも、たったひとつの儀式で描くことはまず不可能なので、「完全なる参入者」より上の全位階は「第二位階」の詳述、生き方についての過程的な指導となる。よって、「第五位階」から「第九位階」までの儀式や教えはつまり、「参入者」への「人生の熟練」の指導である。それは彼をして「人生の達人」とならしめるための「魔術的秘儀」の段階的授与となる。

 したがって6つのイニシエーションは「大地の人間」の3つ組みのなかでO.T.O.の全般的ヴィジョンを包括的に表現しています。そしてこの「永久の径」に含まれる最後の言葉に注意を払うべきです。 “ 周期全体は「消滅 Annihilation」へと引き戻される “ ここで私たちは「消滅」という言葉と出会います。

 

  話を先に進める前に、私はダニエル・ガンサーの興味深い洞察を紹介しておきます。彼はA∴A∴の「大いなる回帰の径」を「夜の径」と呼んでいます。
 一方、O.T.O.の「永久の径」のことを「日中の径」と呼んでいます。 ここでこのふたつを比較してみましょう。

 
O.T.O.: 「日中の径」、「自然界への参入」  外向的、魔術的、正位置 IAO
A∴A∴: 「夜の径」、「霊的世界への参入」   内向的、神秘的、逆位置 OAI  

 
ふたつの結社はまさに相補的です。O.T.O.はソーシャルな形態をとり、共同体的であり、また宗教的な組織です。その中核には「グノーシスカトリック教会」、略してE.G.C.と呼ばれる「教会」があります。

 一方、A∴A∴は個人的であり、霊的です。そのメンバーは自分の直属の上司と生徒以外には、なんらの直接的コンタクトをもちません。
 とはいえふたつの結社の儀式はときに強い類似性を示します。私は、とりわけ「薔薇十字の最高王子、ペリカンと鷲の騎士」とよばれるO.T.O.の第五位階の儀式とA∴A∴のジェレイター位階の儀式、儀式番号120「死体の書」との相関性に注目しています。  さて、お話しを「消滅」へと戻しましょう。

 死を越えた「消滅」とはなんなのでしょうか?
クロウリーは意図的にその言葉を使ったのでしょうか? その疑問に対する答えの断片が『第71の書 沈黙の声』という本のなかにあります。
 それはヘレナ・ペトロブナ・ブラバツキー夫人によって書かれたものですが、クロウリーはその本の解説を書いています。またクロウリーによれば、ブラバツキー夫人はA∴A∴の「神殿の首領」と同等の霊的発達段階にあったそうです。

 クロウリーは彼の魔法名のひとつである兄弟O.M.の名前で『沈黙の声』の解説を書いています。 ここで『第71の書 沈黙の声』の『ふたつの柱』と題されたセクションから引用してみましょう。

「秘密の道」はまた至上涅槃(Parinirvana)の至福へと導く。されど数知れぬ劫末(Kalpas)においてなり。幾多の涅槃は迷える人類世界に対する無限の同情と慈悲より得、また失われよう。”  

 この文章に対するクロウリーの解説を引用します。

“ これはまったく仏教徒の教義に反している。もし、「涅槃 Nirvana」の意味が「消滅 Annihilation」であり、「至上涅槃 Parinirvana」が「完全なる消滅 complete Annihilation」を意味するというのであれば、仏陀は確かに「至上涅槃」に到達していた。そして、そのふたつの涅槃を区別するためには私のものよりも、より形而上学的な解釈が要求されるだろう。”

 クロウリーの仏教解釈はさておき、ここで着目すべき点は彼が「消滅 Annihilation」という言葉を意図的に「涅槃 Nirvana」の英訳として用いているということです。
 ここで「永久の径」における「消滅」という言葉を「涅槃」に置換してみましょう。

“ 周期全体は「涅槃」へと引き戻される ”

 ところで皆さんは涅槃という言葉をどのように定義されるでしょうか? 私はおおよそ下記のように定義しています。

“ ニルヴァーナとは、個々の存在の滅却、すべての欲望と情熱の消滅によって妄執を離れ、寂静のままにあることである。”  

 次にこの定義とクロウリーが『視界のひとつの星』のなかで記述している「イプシシマス」(A∴A∴の最高位階)の定義を比較してみましょう。

イプシシマスは卓越した存在のすべての様式の「マスター」である。 つまり、彼の存在は内的、または外的な必要性から完全に解放されている。彼の仕事はそのような必要なものを組み立てる、ないしは取り消すためにすべての傾向を破壊することである。彼は「非実体の法」(アナッタ)の「マスター」である。 イプシシマスはいかなる「存在」とも関係性をもたない。彼は、その達成のために、いかなる方向に向けても意志を持たず、二元性と関連するいかなる「意識」も持たない。「言葉と愚者を凌駕せよ、汝、言葉と愚者を凌駕せよ」と書かれているがごとくに。

 また『第一の書 Bまたはマギの書』からも引用してみます。

そしてこれは「イプシシマスの位階」の「開始」であり、仏教徒にはネローダ・サマパッティの恍惚状態と称されるものなり。”  

 この「ネローダ・サマパッティ」という、あまり聞き覚えのない特殊用語の意味は「停止の実現」あるいは「知覚の終焉」です。  さらに『第一の書 Bまたはマギの書』は私たちにこう語りかけます。

首領の位階は「悲しみの神秘」の教示であり、メイガスの位階は「変化の神秘」、そしてイプシシマスの位階は「無自己の神秘」の教示である。それはまた「牧神の神秘」とも呼ばれる。”  

 ネローダ・サマパッティ、無自己の神秘、牧神の神秘。
彼は自己もアートマンも所有していません。
 その存在形態はただ「涅槃」であり、「消滅」です。そして「涅槃」は仏教徒たちの最終目標です。私はここでひとつの事実を強調したいと思います。

 仏教徒と「大作業」の従事者たちのゴールはまったく同じです。
それは「涅槃 Nirvana」「消滅 Annihilation」そして「無化 Nulliversion」とよばれています。
 仏陀に率いられていた原始仏教の僧団は深淵を渡ることのみに専心していました。僧団とはまさに仏陀とともにあり、彼の教えを信じ、その「ダルマ」(法)をまもる共同体です。
 
 アレイスター・クロウリー仏陀のことをA∴A∴のメイガスの位階に相当する人物であるとみなしていました。メイガスの主要な特性は、「創造的な魔術的言葉」を保持しているということです。
 そして仏陀の言葉は「アナッタ」または「アナトマン」でした。その意味は「無-自己」「無-自我」そして「アートマンの不在」です。彼はまた「秘密の首領」であり、「銀の星」の成員であり、私たちの中核的儀式「グノーシスのミサ」においては「聖人」のひとりです。

 仏陀の「四聖諦」は永久の真理です。 それらは「悲しみの存在 (苦諦)」「悲しみの原因としての欲望 (集諦)」「悲しみの死滅 (滅諦)」と「涅槃へといたる八つの正しき道 (道諦)」です。
 そう、欲望の終焉にこそ悲しみの死滅があります。それは欲望の滅却にこそ涅槃への道が開けることを示唆しています。

 しかしメイガスの言葉「アナッタ」はとても重要であると同時に誤解を生みやすい概念です。ここでは原始(初期)仏教の観点から、ふたつの解釈を提示してみましょう。
 

  1. 対象そのものを「わがもの」として捉えてはならない
  2. 自身の中に中心的で絶対的な自己がいると錯覚してはならない

 対象を所有したいという欲望と意識から悲み(苦)が到来し、それを獲得できなかったとき、人は苦しみます。
 私たちはそこから自由にならなければなりません。そして私たちは絶対的な宇宙神というものを決して人格化してはなりません。「アナッタ」の意味はまた「アートマンにあらず」でもあります。

 兄弟エイカド、チャールズ・スタンズフェルド・ジョーンズによって発見された『法の書』の鍵を想起すべきときです。
 それは「神」を意味するALと「否(ノット)」を意味するLAがともに31という数値を持つという事実です。 「神(ゴッド)」 = 31 = 「否(ノット)」。
 これは「神の秘密」です。

 いかにも、私たちは魔術においてエジプトやほかのさまざまな神のイメージを使います。しかし、それらは実際のところ私たちの意識のさまざまな局面を表しています。
 私たちは、儀式魔術などにおいて、しばしば外向する精神の多様性を利用します。それに反して、ヨガの瞑想のような内向的な作業では、そういったイメージを排除し、「無」や「空」へと向かおうとします。

  思い出して下さい。イプシシマスとは「アナッタ」、非-自己の法の「マスター」です。  最古の経典である『スッタニパータ』をみるとき、私たちはこの有限な世界で生きながらにして涅槃に到達する、という表現を眼にします。
 それは生きながらにして、深淵を横断する人のことです。
 A∴A∴における「大作業」のように、それは原始仏教のなかにおいても支持されています。欲望と悲しみのメカニズム、そして仏陀が分解し、解析した教えは2500年が経過した現在でも大きな意味を持ち続けています。

 生きながらにして自己という炎を消し去り、涅槃にはいるという行為は原始仏教によって、大いに肯定されています。
 私は、アレイスター・クロウリーの「神殿の首領」の魔法名を思い出します。それは「Vi Veri Vniversum Vivus Vci」であり、その頭文字は V.V.V.V.V.です。またその意味は「真実の力によって、私は生きながらにして宇宙を征服せん」です。「生きながらにして」という言葉は志願者たちにとって、特殊な意味合いをもちます。

 
 ところで、この講義の冒頭でお話しした神秘的ななにかは、私がつねに追求し続けているものです。それは「真の自己」の経験だったのでしょうか?
 あるいは「神」の? あるいは「虚無」の? あるいはたんなる白昼夢だったのでしょうか? あるいはなんらか「聖なる」何かだったのでしょうか? 結局のところ、私には何もわかりません。私は自分が経験を説明することなどできないのです。

 面白いことにカバラの数値変換(ゲマトリア)システムでは「私」「私自身」そして「最初の人間」を意味する「アニ」という言葉と絶対者の最初の否定の帳、宇宙の始まり以前を表す「アイン」は同じ61という数価をもちます。
 61という数値は5の二乗と6の二乗を足し合わせた数値です。
それは五芒星(小宇宙)と六芒星(大宇宙)の総和を表すという意味で魔術ではとても重要な数字です。

 『法の書』における鍵は「神(ゴッド)」は31という数値によって「否(ノット)」と等価になるというものでした。そして「私自身」である「アニ」もまた61という数値によって「アイン」たる「無」または「否」と等価になりました。
 仏陀の教えである「アナッタ」の意味は「非-自己」です。 それらのコンセプトは存在の究極の性質を示唆しています。それは私たちは、本当は決して存在などしていないということです。それは自我という炎の完全なる消火です。
 それは「涅槃」であり「消滅」です。それは「大作業」のゴールである「無化」です。


 O.T.O.においてそのプロセスは、セレマ的なフリーメイソンリーの象徴と寓意に立脚した一連の参入儀式によって表現されます。
 それは「永久の径」と名づけられた「誕生」から「深淵踏破」までの象徴的旅路です。

 一方、A∴A∴の「径」はよりダイレクトな「径」です。
彼らは「大いなる回帰の径」とよばれる長く険しい「径」にダイレクトに踏み出します。

 より重要なことは、ふたつの結社のゴールは同じだということです。私たちはネモとして楽園エデンに回帰するのです。そして「神殿の首領」の別名であるラテン語の「ネモ NEMO」の意味は「だれもいない」です。
 深淵を越えたビナーの領域、別名「ピラミッドの都市」には「私」や「私自身」といったような個は存在しないのです。ビナーの意味は「理解」で、そこは「パンの夜」の下にある知られざる「発話のなかの沈黙」の領域なのです。

 
 ここまでに私は「涅槃」と「消滅」について語ってきました。
そしてそれらふたつの言葉の意味は結局同じであることを述べました。
その意味は「非-自己 No Self」です。
 では私の講義のタイトルにある「三角形の中の眼への回帰」とはどういう意味なのでしょうか?

 まず、私たちにとってもっとも重要なソースである「A級刊行物」、『セレマの聖なる書物』のひとつをみてみましょう。

汝は「眼」と「歯」、「精霊の山羊」、「創造の主」である私を崇める。私は汝が崇めし「三角形の中の眼」、「銀の星」である。


            『第370の書 アアシまたは精霊の山羊の書』18節

 
 まずこの文章の意味を考えてみましょう。
ヘブライ文字の「アイン」[無を表すAinではなく、Ayin]の意味は「眼」です。私はこの文字をO.T.O.のトレードマークを分析する際に言及しました。
 そしてヘブライ語で「歯」を意味する文字は「シン」です このふたつの文字を続けて書くと「アアシ」という言葉になります。

 この聖なる書物のタイトルにもなっている言葉です。さらにアインは70、シンは300という数価をもっています。ふたつの文字を足すと、それは370になります。
 この数字がこの本特有の数字になっていて、したがって重要な意味をもっています。ここで万物照応を用いて、ふたつの文字の占星学的属性について考えましょう。

 アインには磨羯宮が対応し、シンには第五元素である「精霊(スピリット)」が対応します。そして私たちは「精霊の山羊」という言葉を得ます。さて「アアシ」のヘブライ語の意味は「創造」です。そして「アアシ」は自らを「創造の主」だと宣言しているのです。「アアシ」はまた、私は「三角形の中の眼」であり、「銀の星」だと言っています。

 
 そう「アアシ」たる「創造の主」は同時に「三角形の中の眼」でもあり、「銀の星」でもあるというのです。ここでA∴A∴のオフィシャル・サイトから引用しましょう。

「団」は、V.V.V.V.V.から、熟練した存命の達人を通して、不断の「鎖」によって継続されている。「団」は「ひとつ」であるが、その機能は、「沈黙の内にある発話」「沈黙」「発話の内にある沈黙」という3つの様式から成る。「団」は、一なる「三角形の中の眼」として「ひとつ」である。

                                       http://www.outercol.org/  

 「銀の星」とはじつのところA∴A∴の第三団、最上級の学舎の名前です。そのラテン語は「Argenteum Astrum」であり、頭文字をとってA∴A∴とよばれます。

 厳密にいうと「銀の星」は、深淵を越えたもっとも高い位置にある首領たちの学舎の名称です。その領域は、通常、「至高」あるいはカバラでは「至高の三角形」とよばれています。それはケテル、コクマー、ビナーの3つのセフィロトから構成されています。

 
 ここで心に留めておかなければならないことがあります。
深淵を越えたこの最上位の世界、3つのセフィロトによって構成されるこの世界においては、なにものをも分割することができず、その存在は3によって形成される1であるということです。
 それは、もしあなたが理想世界と現実世界を分断する深淵を越えたならば、私たちの通常の知覚や思考は機能しなくなることを意味しています。  

 Jダニエル・ガンサーは「深淵を越える」ことについて重要なことを書いています。

それは、自我によって濾過された直線的思考や本能的反応というプロセスを経て分化されてしまった意識の状態から、自我的、あるいは本能的な区別を免れた「普遍的生命」たる統一、ないしは無化された意識への横断である。"

                      『天使と深淵』第六章  


 2011年、東京で一連の講義を行ったダイエル・ガンサーに対して、私は次のような質問をしました。「V.V.V.V.V.とアレイスター・クロウリーの聖守護天使アイワスは別々の存在なのでしょうか?」
 彼の回答はこうでした。「深淵を越えた世界において存在を区別することはできない」。そう、彼らは深淵を越えた世界においては、ひとつであり、無なのです。
 「三角形の中の眼」は、まるで禅の公案のような謎々を私たちになげかけます。
なぜならば、私たちの知覚は二元論という常識に縛られ、私たちは主にふたつの対象の「差異」によってしか、なにものも認識できないからです。 私は即座に『法の書』の下記の言葉を思い浮かべます。

かくして今、汝らにはヌイトという名前で知られ、彼には、終にわれを知りたる時に授ける秘密の名前によって知られるなり。われは無限の宇宙、そして無限の星々であるが故、汝らもまた、かくの如き行え。何者をも束縛するなかれ!おまえ達の間で、如何なる二者にも差異を作らせるべからず。何故ならば、それによって苦痛が生じるからである。”                                    『法の書』第一章 22節

 さまざまな局面をもつなんらかの集合体としての対象を観察するのではなく、むしろ直感によるダイレクトな体験によって真実は理解されます。
 それは真のグノーシスの視点です。それはまた「天使」の「眼」です。 アレイスター・クロウリーは『真理に対する小論集』という素晴らしい本の中で心の「無関心」を推奨しています。

 

“ ひとつには、いかなる欲望の形態にも拘束されていない心の習慣を養う必要がある。「無関心の状態」は、このように防衛と保護としての沈黙の一形態であり、さらに仏教の「3つめの崇高なる真理」である「悲しみの死滅」と同義である。

 
したがって「無関心」は達人の「自動意識」の霊的な形態である。『第418書』の11番目のアエティールに記されているように、それは「深淵の境界たる大要塞」がある場所、イェソドに存在する。

 
したがって「無関心」の獲得の方法(「達成」という言葉が適切な場合もある)は単純だ。それは実際、「タオの道」である。

“ 以下の論理学の連鎖式は、志願者にとって有用であることが証明されるだろう。「存在」とはただ「連続体」として理解される。 「存在」のあらゆる部分は、したがって最終的に等しく、全体を形成するために等しく必要である。
したがって、それぞれのイベントは、等しい敬意、および反応によって受け入れられ、等しい無関心によって形成される必要がある。

“  この「無関心」を獲得する方法は、「悲しみの恍惚状態」のいかなる体験とも完全に独立しているという点で興味深い。それは厳密なセレマ的前提を基礎とした単純、かつ標準的な考慮の結果である。それは極めて推奨されるべきことだ。

               『真理に対する小論集』「無関心」  


 さて、あなたのこれまでの習慣的な思考法を捨て、沈黙、あるいはグノーシスの視点で次なる言葉に耳を傾けてみて下さい。

  
縛り付けられ、嫌悪を振りまきたる、多くのものとなり,形の状態はそのままにさせておけ。汝の一切に関しても。汝は自らの意志を行う他には権利を持たぬ。

それを行え。されば何者も拒絶する事はないであろう。
決意の減退する事なく、結果ばかりを求める抑え難き欲望より解放された純粋なる意志とは、あらゆる点において完全であるゆえに。
その完全とその完全によってひとつの完全になるのであり、ふたつになるのではない。否、無となるのだ!”   
                               『法の書』第一章 42-45節

 
 さて「三角形の中の眼への回帰」とはなにを意味するのでしょうか?
それは理性、知性と知識を越えた非-直線的思考、直感とグノーシスの世界への回帰を意味します。

 志願者は「知識」を意味する深淵上の偽のセフィラ「ダース(知識)」そのものを越えていくのです。そしてすべての志願者は深淵を越えていく際に自我を持たない純粋無垢な「赤子」になるのです。クロウリーはこの特殊な位階のことを「深淵の赤子」とよんでいました。そうして彼らは「神殿の首領」またはババロンとして第三団の成員となるのです。

 より正確にいうと、実は深淵下で機能する「三角形の中の眼」というものもあります。それは「眼」が右眼なのか左眼なのか、あるいはその他の要素に依存して決まります。
 しかし、私が今日ここで皆さんにお話ししている「三角形の中の眼」は深淵の上を表すシンボルです。それはまた「銀の星」そのものです。

 「涅槃」「消滅」「三角形の中の回帰」はすべからく同一の現象を表しています。それは「非-自己」ないしは「誰もいない」を意味する「ネモ NEMO」です。

 
 ここで仏陀の「径」について少しだけお話ししましょう。彼は私たちの「メイガス」のひとりであり、「グノーシスカトリック教会」の聖人です。
 彼の方法論は、欲望や痛みや苦悩といった人間をがんじがらめにする負の連鎖の原因に対する過激な自己分析といえるでしょう。
 それゆえに仏陀は「存在の悲しみ」に関して「アナッタ」すなわち「自己」や「自我」の本質的不在を強調するのです。
 しかし仏陀は彼の「径」の術式を緻密に画一化しませんでした。なぜならば仏陀は真理へと導くことにかんして、直線的思考や言語の無益さを熟知していたからです。
 アレイスター・クロウリーもまたこのことをよく理解していました。彼は『第333の書 虚言の書』のタイトルページに対する解説にこう書き記しています。


“ 本書に付与された番号333は「断絶」や「虚言」に対応し、分散を意味する。「ひとつの思考それ自体は虚偽」であるがゆえに、その偽証は相対的に真実である。したがって本書は、人間の言語を用いた真実に近しい声明により構成されている。

 
 確かに333は深淵に棲む邪悪な悪魔コロンゾンの数字です。
コロンゾンは「知識」を表象します。彼は「形象のマスター」であり、その性質は拡散、分裂、破壊です。
 ヘブライ語で「知識」を意味する深淵上のセフィラ「ダース」は、偽りのセフィラであり、それは「虚偽の王冠」あるいは「人的知性の王冠」とよばれています。それは二元性の二律背反と言語がもつ矛盾に依拠しています。
 そう、コロンゾンは「真理」ではありません。なぜならば「真理」は直線的思考や言葉では決して説明できないからです。
 その理由からクロウリーは『虚言の書』にコロンゾンの数値を付与したのです。またコロンゾンはクロウリーにとってのマーラ[仏陀を誘惑した悪魔]でした。

 
 初期の仏教で成立したとされる「四聖諦」[4つの聖なる真理]や八正道、十二支縁起などの理論的側面は、仏陀の死後に、より詳細化され定義されたことをあなたはご存じかもしれません。
 それらはシンプルで合理的な教義であると思われますが、仏陀の「法」そのものはよりインスピレーショナルで細かなマニュアルなどによって整備されていたわけではありません。
 私は仏陀の「解放の径」はシンプルだと思っています。彼は弟子たちに、ただ深淵を越えよ! とだけ教えていたのですから。そして彼らは労働を放棄し、ただ座り、真理を追究しました。

 

 私たちの高潔なる「径」は『法の書』に記された「存在とは純粋なる喜びである」という言葉によって理解されます。
 それは私たちの「解放の径」です。 私たちは生きるために労働にいそしみます。私たちはおもに都市部に住んでいます。
 私たちは税金を支払い国家の法律を遵守します。それでも私たちは、私たちの声明である『オズの書』に記された自由への鍵を確信します。  
「人間以外に神はなし」と。

 

 私たちは「大作業」を達成するための「径」を知っています。
そのゴールは「神との合一」です。その意味はサンサーラの輪を切ることです。
 それは「ネモ」、「銀の星」の第三団の「神殿の首領」は、決して人間として生まれ変わることはないということを意味しています。 決して!  
 「涅槃」「消滅」「三角形の中の回帰」に関して知り、理解する。それは私たちの「真の意志」です。それは私たちのDNAに刷り込まれています。

 

“縛り付けられ、嫌悪を振りまきたる、多くのものとなり,形の状態はそのままにさせておけ。汝の一切に関しても。汝は自らの意志を行う他には権利を持たぬ。それを行え。されば何者も拒絶する事はないであろう。

決意の減退する事なく、結果ばかりを求める抑え難き欲望より解放された純粋なる意志とは、あらゆる点において完全であるゆえに。

その完全とその完全によってひとつの完全になるのであり、ふたつになるのではない。否、無となるのだ!”

                    『法の書』第一章 42-45節

 

 それは私たちの知られざる「偉大なる秘密の首領」からのメッセージです。

 

 さて,ここで混乱しないで下さい。深淵を越え、無化された「なにものでもない存在」――それを私たちの霊的伝統に則って仮に聖守護天使と呼ぶことにしましょう。
 天使は言葉を超越し、寂静のままにあります。
 天使の存在を正確に述べることは誰にとっても不可能なことです。

 にもかかわらず、なぜ天使は魔術師に「言葉」を伝えるのでしょうか?
その答えはすでに『セレマの聖なる書物』のなかに見出すことができます。


 そう遠くない日に、私はあなたと真摯にその課題について語り合いたいと思っています。

 

     愛は法なり、意志の下の愛こそが。

O.T.O.東京シンポジウム Gen 験 

Do what thou wilt shall be the whole of the Law.

 

オカルティズムの百科全書、魔術結社A∴A∴の機関誌『春秋分点』第一巻に連載されていた『ソロモン王の神殿』は一貫してクロウリーが追及した西洋魔術の軌跡とその理論的骨子を伝えています。クロウリーはその連載の中で、かつて自身が参加していた「黄金の夜明け」団の外陣、内陣の参入儀式と教義のアウトラインを暴露するという暴挙にでました。「生命の樹」の小径とタロットの大アルカナの照応すら秘密であった当時、あろうことかクロウリーは多くの「黄金の夜明け」団の内部資料を白日の下に晒したのです。

 『ソロモン王の神殿』は彼の弟子だったJ.F.C.フラーの助力のもとに執筆・編纂された一連の知識文書です。そこにはクロウリー自身の初期の魔術日記が含まれ、主にマジスター・テンプリ8=3位階に到達するまでの彼の魔術修行と格闘の軌跡が紹介されています。その意味では『ソロモン王の神殿』は若かりしクロウリーが学び、体験し、考察し、公開した秘教伝統の教科書になっています。

 反逆者クロウリーは、「黄金の夜明け」団の内陣である「真紅の薔薇と黄金の十字架」の小達人5=6位階の地下納骨所の参入儀式やZ2文書を暴露した半年後、『春秋分点』第一巻四号を自費出版します。そこで今度はクロウリー自身が関心を寄せていた東洋の体系について存分に紹介しています。そこにはヴェーダンタ哲学、各種ヨガの紹介と彼の実践記録、チャクラやムドラーの解説、仏教教義(八正道、マハサティパッターナなど)が含まれていました。それ以外にもクロウリーは熱心なTAO信者であり、易経にも精通していたことはいうまでもありません。

クロウリーの師匠のひとり、アラン・ベネットはアーナンダ・メッテイアの名を持つ仏教僧でもありました。まさに東洋の叡智がクロウリーに与えた影響は甚大であり、その叡智なくしてはA∴A∴の訓練体系は到底完成には至らなかったであろうことが想像されます。彼は外向する儀式魔術(それは内面から外的な世界を変容させます)と内向する神秘主義(それは外側から内面の深部へと作用し、沈黙にいたります)の相反する二方向の精神作用を熟知し、それを統合することを説きました。私見ながら、ヒンドゥーイズム、ブッディズム、TAOはA∴A∴の訓練課程に組み込まれ、イスラム神秘主義フリーメイソンの象徴体系と融和し、O.T.O.の内部に取り込まれました。

 20世紀初頭から積極的に東洋の叡智と実習を取り入れ、個の修行体験を精錬させることに努めたクロウリーの態度はいまや当たり前のものとなりました。西洋と東洋の両秘教体系の相似性と差異を分析し、その長所を取り入れ、柔軟かつ効果的な修行体系を確立する、それはクロウリーをはじめとした20世紀の修行者たちが試みてきた重要なアプローチのひとつでした。

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 2019年4月に予定されていた「Journey to the East 東遊記」は当初の予定を延期し、そのかわりとしてJ.ダニエル・ガンサーとオーストラリアのグランド・マスター、フラターShivaを迎えてのより規模の大きなイベントとして再構築されることになりました。そして当初予定されていた今年の4月には別途、下記のイベントが開催されることになりました。

 

【GEN - 験】OTO TOKYO SYMPOSIUM -6th Apr-

A MYSTERIOUS SIGN THAT APPEARS AS A RESULT OF SPIRITUAL AND MAGICAL PRACTICE

■講演

Heiros Phoenix 
 Nirvana - Annihilation and Return to the Eye in the Triangle
「涅槃-消滅、そして三角形の中の眼への回帰」
クロウリーが提示した「大作業」における東洋の叡智の諸影響の考察。

Robert Koole
 Ex Oriente Lux – Light from the East
A brief overview of the influence of Eastern spiritual and magical systems on the Western current.
「東方より出づる光」
 東洋の霊的システムが現代西洋魔術の流れに及ぼした影響の概要的考察。

 Raven
 The Manifestation of Three-Dimensional Cosmic Mandala
The result of her personal comparative study between Japanese astrological mandala and the Western astrology.
「立体的宇宙曼荼羅
 日本の地で完成したと言われる星曼荼羅(北斗曼荼羅)と西洋占星術の概念の比較研究、そして融合の実験。

Tickets : チケット
JPY 3000
3,000円

Contact : 問い合わせ・申込み
nihil2019★gmail.com
(★を@に変換しメールを送って下さい)

このイベントに参加をご希望の方はぜひ上記アドレスに問い合わせしてみて下さい。皆様とお会いできることを楽しみにしています。

 

Love is the law, love under will.

IAO Formula

Do what thou wilt shall be the whole of the Law.


人は平凡な人生より、波乱に満ちた苦渋の経験を経ることによって知恵を増し、忍耐強くなることができます。ふりかかる艱難辛苦に耐え、それを乗り越えることこそが人間に深みを与えるのかもしれません。魔術の術式における「IAOの術式」は、最初に存在するひとつの「理想」状態が災害などによって危険にさらされ、それを乗り越えることによって蘇生・復活し、最初の状態から一段階ステップアップする成長過程を定式化しています。IAOはグノーシス主義における最高神ですが、「黄金の夜明け」団の象徴学では、「IAOの術式」は、I-A-Oの3文字に分解され、それぞれI =イシス、A=アポフィス、O=オシリスの頭文字として、連続する変化過程を象徴するエジプト神話の神格へと変換されます。イシスは慈悲深き母のアーキタイプとして愛と慈しみの主催者とみなされます。彼女はオシリスの妻であり、太母としてひとつの理想的な「自然」を表象します。アポフィスは邪悪な毒蛇、ないしは砂漠と南方の神セトとしての破壊者です。邪悪な弟セトはイシスの夫にして兄であるオシリスを殺戮し、オシリスの肉体を分断し、破壊します。夫の死を嘆き悲しむ女神イシスは彼女の魔法によって失われたオシリスの肉体を再構成し、より強固なる神オシリスを復活させます。この場合、オシリスは殺害という致命的な危機にさらされ、のちに復活し、完全となる変容の主体となります。あるいは、それは理想を追い求める高邁な魂が、霊的渇きという魂の暗い夜に浸食され、やがて一筋の光明を発見し、それをたぐり寄せることによって光に満たされるといったような再生のモチーフを主軸とした元型的なドラマと同義です。

こういった「死して蘇る神」のモチーフは過去2000年にわたって人類に大きな意味をなしてきました。その最大の因子は、いうまでもなく救世主イエスの復活の物語でしょう。「黄金の夜明け」団の六芒星儀式や小達人の参入儀式ではIAOの名前を、イエスが拘束された十字架上に掲げられた言葉「INRI」から導きだします。この言葉はラテン語の「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM」の頭文字とされ、もっとも一般的には「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と訳されています。実際の式文はこうです。

 I.N.R.I.
 ヨド ナン レシュ ヨド
 ウィルゴ・イシス・無敵なる母
 スコルピオ・アポフィス・破壊者
 ソル・オシリス・殺されて立ち上がりぬ
殺されしオシリスのサイン
 L=イシスの嘆きのサイン
 V=タイフォンとアポフィスのサイン 
 X=甦りしオシリスのサイン
 L−V−X−ルクス−光
 光の十字架

そして、この一連の動作によって、魔術師はD.W.B. ( Divine White Brilliance 神聖白輝光 ) を天から召喚します。ここでこの「INRIの鍵の解析」とよばれるこの簡素なカバラ的変換について少しだけ解説してみましょう。
ヘルメス・カバラの理論に従えば、INRIの4文字は、下記の照応をもつとみなされます。

I     ヨッド     処女宮       
N     ヌン      天蠍宮      
R     レシュ     ソル(太陽)      
I     ヨッド     処女宮

テトラグラマトンの「父」を表す男性的な文字ヨッドに処女宮が対応していることに違和感をもつ必要はありません。ここで考えるべき観点は女性的な観点ではなく、あくまでもその処女性、つまりは自然における純粋性です。天蠍宮は猛毒を放つ蠍による「死」、すなわち「変容」の代名詞として解釈されます。太陽は私たちの生命の与えてにして、地上に富をもたらす自然界の包括的エネルギーのシンボルです。INRIの4文字は、従ってカバラ的に変換され、処女宮( =ウィルゴ・イシス・無敵なる母)、天蠍宮( =スコルピオ・アポフィス・破壊者)、太陽( =ソル・オシリス・殺されて立ち上がりぬ)となり、3人の偉大なる神の頭文字へと変換されます。ここから魔術師は「黄金の夜明け」団の中で「L.V.X.のサイン」とよばれる4つのサインを順次形成します。
「殺されしオシリスのサイン」は磔刑を示唆します。ここでオシリスは邪悪な破壊者の殺意の犠牲となります。「L=イシスの嘆きのサイン」は最愛の夫の死を嘆く妻の悲しみのサインです。「V=タイフォンとアポフィスのサイン」は、毒をもつ破壊者のサインであり、それは兄殺しセトを示しています。 「X=甦りしオシリスのサイン」はイシスの愛によって蘇生・復活した大いなる神、完成者オシリスのサインです。これら4つのサインはL.V.X.、すなわち「光」による救済の教義を体現します。またL.V.X.をゲマトリア変換した数値65は「アドナイ」の数値と同じであり、復活したオシリスが最も至高なる「神」として復活・昇華したことを示唆しています。


アレイスター・クロウリーは『魔術 理論と実践』の第5章「IAOの術式」の冒頭部分で薔薇十字の三位一体論を引用しながら、この術式の概論を述べています。

Ex Deo nascimur 私たちは「神」より生まれいで
In Jesu morimur 私たちはジーザスとして死にいたり
Per Spteitum Sanctum reviviscimus 私たちは「聖霊」によって再生するのです

この言葉は『薔薇十字の名声』に登場する伝説のクリスチャン・ローゼンクロイツが抱いていた『Tの書』の結びの一文です。これはキリスト教ローゼンクロイツの信条として如実に「IAOの術式」の本質を反映しています。「IAOの術式」は、「進化」(それは再生と同義です)の過程、そのドラマを反映した「昇華」の公式です。そう、オシリスには「死」が必要不可欠だったのです。彼はたんに過去のオシリスの復元として復活したのではなく、より優れた存在として昇華するために、必然としての「死」を体験し、新たな神として創造されたのです。この場合の「死」とは、錬金術の「ニグレド 黒化」とまったく同義ということになります。すなわち、純粋な金を得るためには、第一質量は完全に腐敗し、破壊されたのちに再構築される必要があったのです。

「IAOの術式」の中心的宣言としての「INRIの鍵の解析」は「黄金の夜明け」団の達人の地下納骨所を開く秘密の鍵でもありました。「死して蘇る神」の術式は、「腐敗し、再生する勝利の神」の術式であり、それは過去2000年にわたって西洋の神秘思想を席巻してきた中心教義でした。アレイスター・クロウリーはまずこの標準的な「IAOの術式」を解釈したのちに脚注でこう述べています。

「これとはまったく異なる他の術式がある。そこではIは「父」、Oは「母」、Aは「子供」である。あるいはさらに異なる術式ではI,A,O,とは、「母」であるH.H.H.によって均衡する「父」であり、両者はそれによって完成した「宇宙」となる。3番目のもの、「獣666」の真の術式では、IとOはAの作業領域を形成する相反物となる。」

??? これはクロウリーのいたずら心が創作した戯言なのでしょうか? 私は以前、このブログで彼の『魔術 理論と実践』を評してこう断言しました。
アレイスター・クロウリーという人間は、こと魔術に関しては、いい加減なこと、根拠のないことは書かない」
この考えは今もまったく変わっていません。彼が言及した3つの「IAOの術式」は実在し、なおかつ私が知る限り、もうひとつ極めて重要なニュー・アイオンの「IAOの術式」が存在します。しかもそのバージョンには新しい時代の新しい「INRIの鍵の解析」がセットになっています。クロウリーは、「腐敗し、再生する勝利の神」の術式としての「IAOの術式」以外に下記の4つの「IAOの術式」を公式化したことになります。

(1) I「父」、O「母」、A「子供」
(2) IAO 「父」、HHH「母」。真正六芒星の完成
(3) I 「父としての男根」、A「作業結果」、O「母としての女陰」
(4) I「父」、A「母」、O「子供」


では、クロウリーはなぜそれらの他の術式を『魔術 理論と実践』で紹介し、解説しなかったのでしょうか? その答えは明白です。それらの術式はO.T.O.とA∴A∴の諸位階の参入儀式、位階の教義文書に採用されているもの、すなわち両団のイニシエート以外には秘密とされているからです。クロウリーは、ことさら「IAOの術式」を重視していました。彼はイニシエートの魂の錬成、錬金術的変容の過程、あるいは哲学的真実を伝えるために「IAOの術式」をときに変則的に用いていました。その意味でも「IAOの術式」は私たちにとって「絵に描いた餅」、すなわち「形だけで実際には何の役にも立たないもの」ではありません。それは深遠で言葉では表現できない神秘を伝える魔術のヒエログリフ、実際に行動が付随する力動的変容過程を端的に表現した公式なのです。

クロウリーは『魔術 理論と実践』の第5章「IAOの術式」の中で、「IAO」を敷衍した新たな術式「FIAOF」について多くの言葉を連ねています。彼は「IAO」の接頭辞、接尾辞として「子供」を表象する「ヴァウ(F or V)」加えることによって、セレマとアガペーが持つゲマトリア数字93と等価となる「FIAOF」(あるいはVIAOV)を創作しました。しかし、その変更は彼にとって理に適ったものでした。なぜならば、彼が受け取ったアイオンの福音書『法の書』によれば、神は必ずしも死ぬ必要はない、と説かれていたからです。


“ われは地上においては想像もつかぬ程の喜びを与える。生ある間に信仰ではなく、確信を死の上に。言葉では言い表せぬ平穏、静寂、休息、恍惚を。われは如何なる生け贄をも要求せず。” 『法の書』 第一章58節


 “ 隠されたる、栄光に満ちたわが名前の内に光輝はある、真夜中の太陽(サン)が常に息子(サン)であるように。” 『法の書』 第三章74節

「FIAOF」は、永続的な戴冠する「子供」の術式として旧来の「IAOの術式」とはまったく異なる哲学を主張することになりました。「ホルスのアイオン」においては「最後の審判」や磔刑の意義といった概念は緩やかに撤廃され、祝福された無垢なる子供の存在の喜びが強調されることになりました。


“ 汝ら一同、覚えておくがよい。存在は純粋なる喜びであるという事を。全ての哀しみは影の如きものにすぎぬという事を。それらは通り過ぎ終(つい)えるものであるが、留まるものもあるという事を。” 『法の書』 第二章9節


セレマの法の中心教義は、人間の本質を「神」と同等とみなしたことです。「神」は決して人間の魂の外側にはなく、その内側で見出されます。東洋では一般的なこの考え方がその中心にある以上、神は「死して蘇る」必要はないのです。したがって「FIAOFの術式」はクリスチャン・ローゼンクロイツが説いた死と蘇りの神秘劇とはまったく異なる術式として定式化されることになるのです。


“ かくして今、汝らにはヌイトという名前で知られ、彼には、終にわれを知りたる時に授ける秘密の名前によって知られるなり。われは無限の宇宙、そして無限の星々であるが故、汝らもまた、かくの如き行え。何者をも束縛するなかれ!おまえ達の間で、如何なる二者にも差異を作らせるべからず。何故ならば、それによって苦痛が生じるからである。”   『法の書』 第一章22節


「IAOの術式」が時代を反映した「神」に対する魔術的公式化であるならば、それはまた時代の遷移とともにその形を変化させていったとしても不思議ではありません。ちなみに「FIAOF」という言葉の発音ですが、「フィアオフ」とは発音しません。その正しい発音は「イーアーオー」です。同じく、例えば「Aumgn」は「オウムグン」とは決して発音されず、それは単に「オウム」と発音されます。

アレイスター・クロウリーが従来の「IAOの術式」を認めつつも、4つの異なる「IAOの術式」と「FIAOFの術式」を定式化したように、あなた自身もまたその個人信条と神学理論に基づき独自の「IAOの術式」を創作することができます。そしてそれは必ず行動を伴う生きた魔術哲学となり、あなたの理解と成長を促すに違いありません。「IAOの術式」をはじめとした「マジカル・フォーミュラ」とは決して単なる思考の玩具ではないのです。少なくともアレイスター・クロウリーが異なる「IAOの術式」を使い分け、膨大な理論と実践の糧をそこから導き出したように。幸運を!


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魔術学講座vol13 アレイスター・クロウリー 解体新書

Do what thou wilt shall be the whole of the Law.

イギリス帝国が絶頂期を迎えていたヴィクトリア朝後期の1898年11月、23歳の才気溢れるひとりの若者がロンドンにあった「黄金の夜明け」団イシス=ウラニア・テンプルで参入を果たしました。フラター・ペルドゥラボーと名乗る無名の新米魔術師アレイスター・クロウリー。彼はのちに魔術に関する膨大な著作を著し、20世紀最大の魔術師と称されると同時に、同時代人たちからは好奇の目でこう揶揄されていました。「世界最大悪人」「黒魔術師」「悪魔崇拝者」「獣666」。魔術実験のために麻薬を駆使し、性のエネルギーを魔術的に応用し、饗宴を繰り広げ、挙句の果てに破産し、自滅した退廃的異端主義者。クロウリーは、ある意味、表層的で偽善的な抑圧された道徳社会に住む民衆が投影したシャドーとの格闘を余儀なくされました。

彼は、プリマス・ブレザレンというキリスト原理主義の家庭で育ちました。閉塞的なカルト教団の硬直した聖書解釈の洗礼を受けた彼は、やがて自らの獣性を育み、「世紀末の獣666」の真の価値を悟ります。


「汝の意志するところをなせ、これぞ法のすべてとならん」「愛は法なり、意志の下の愛は」。1904年、28歳のクロウリーはエジプトのカイロで、彼の聖守護天使アイワスによって新時代の福音を授かります。『法の書』、あるいは『第220の書』とよばれるこの異端預言書は、現在までに多様な版が刊行され、また世界中で翻訳されています。『法の書』は一読するとまさに悪魔の福音書と呼ぶにふさわしい背徳的な散文詩です。それは難解な魔術哲学とカバラの鍵に支配された解読不可能な暗号文書のような書物でした。クロウリーは、一見悪魔主義的なこの書物を、人生を賭して紐解き、人々に教示してまわりました。クロウリーの述べる「意志」とは内奥に眠る真の自己の神性を表す尊いロゴスであり、「愛」とは反発し、排斥し合うふたつの事象をひとつへと結びつける霊的・化学的公式の鍵となる概念でした。彼は、その主著『魔術 理論と実践』の中でこう宣言します。

 「悪魔など存在しない。それは拡散という名の自らの無知と混乱に陥った「黒い兄弟たち」が「統一」を暗示するものとして考案した不誠実な名前にすぎない。悪魔が統一を獲得したならば、その存在は神となるだろう。」


クロウリーにとって、民衆が悪魔として排斥する存在こそがまさに神であり、逆に神として崇め奉る存在こそが排斥すべき不毛なる虚像「悪魔」だったのです。「黒い兄弟たち」とは、神の本質を理解することなく、自我の欲望によって深淵に落下する堕落した魔術師を指すクロウリーの専門用語です。そう、彼はこの逆説的神学を一生追い求めて死んでいきました。そして彼の「意志の芸術」セレマ主義の本質は、彼が率いていた魔術結社「東方聖堂騎士団」よってこう定義されています。”Deus est Homo Homo est Deus”、その意味は「神は人なり 人は神なり」です。なぜならば、「人」としての主体なきところに客体としての「神」は存在し得ないからであり、また「人」には秘められた「創造」という名の真のギフトと霊智が宿っているからです。人間とは霊的に完全に平等な神性の光であり、卓越した霊智のマスターでもあります。この事実は『法の書』によってこう伝えられています。「すべての男とすべての女は星である」。永久に光を放出し、自らの軌道を進む完全性の種子、それこそがクロウリーが捉えた真の人間観です。

7月16日の祝日、銀座のBAR十誡で、聖ヴァニラ学園の魔術学講座vol13「アレイスター・クロウリー解体新書」が行われます。本イベントにおける私の役目は、クロウリーの側にたった観測地点からアレイスター・クロウリーを解体し、考察することです。彼が述べる神と悪魔の関係、彼が追い求めた非物質的知性体との接触、儀式とカバラ、「大作業」と楽しい修行生活!? 私にしか奏でることができない聖クロウリーへの鎮魂歌、皆様とお会いできることを楽しみにしています。

https://www.vanilla-gakuen.com/kouza/1807/

Love is the law, love under will.

『魔術-理論と実践』

Do what thou wilt shall be the whole of the Law.

アレイスター・クロウリーの代表作『魔術-理論と実践』を始めて手に取った人は大抵の場合、すぐさまその本を閉じてしまいたいという衝動に駆られるに違いありません。まず意味不明な魔術的専門用語に満ちあふれ、難渋きわまりないそれは実際、彼の魔術理論と実践に人々をひきつけるどころか、遥か彼方に遠ざけてしまう荒唐無稽な妄想の産物以外のなにものでもありません。自らを「黙示録の獣666」と名乗るクロウリーは、まず、最初に「666」という数字がいかに神聖であるか、また「獣」という一見背徳的な概念がいかに崇高な理念に基づいたものであるかを懇切丁寧に説明すべきでした。クロウリーは、彼の特殊用語(ババロン、ハディート、ヌイト、NEMO などなど)を初読者に順序立てて解説するプロセスをすべてすっ飛ばしたといえます。まさか彼は、『魔術-理論と実践』を読む多くの読者が、彼の魔術理論を予習したうえでこの本を読むだろう、というとんでもない勘違いしていたのでしょうか? それは考えられないことです。なによりも彼は、同書を彼の魔術哲学への入門書として万人のために書きあらわしたのですから! そう、彼は『魔術-理論と実践』を全ての男女、そして子供たちのために書き表したと明言しているのです!
アメリカのクロウリー研究家にして、OTOの重鎮メンバーの一人、リチャード・カジンスキーは14歳のときに初めて『魔術-理論と実践』を読み、その序文に記載されたクロウリーの意味不明な署名に困惑したことを告白しています。さて、そこにはこう書かれていました。

To Mega Therion: The Beast 666; MAGUS 9'=2' A∴A∴who is The Word of the Aeon THELEMA; whose name is called V.V.V.V.V. 8'=3' A∴A∴ in the City of the Pyramids; OU MH 7'=4' A∴A∴; OL SONUF VAORESAGI 6'=5', and ... ... 5'=6' A∴A∴in the Mountain of Abiegnus: but FRATER PERDURABO in the Outer Order or the A∴A∴and in the World of men upon the Earth, Aleister Crowley of Trinity College, Cambridge.


実際、それはクロウリーの魔術結社A∴A∴における彼の魔法名が列挙されているだけに過ぎないのですが、初見で、ましてや14歳の少年がその意味を把握することは完全に不可能でしょう。クロウリーは団の規則に則って彼のアデプタス・マイナーの魔法名を伏せていますが、近年、クロウリーのアデプタス・マイナーの魔法名はChristeos Luciftiasであることが判明しています。クロウリーの研究家や彼の著作の愛読者にとっては彼の魔法名は御馴染みのものです。しかし、それは完全な専門用語・名称であり、とくにクロウリーのそれは特殊性の強いものです。彼の魔術理論と実践をより深く理解するためには、彼が歩んできた魔術師としての人生を振り返る必要があります。その点において私たちは彼が「ハグ」と呼んでいた「聖人自叙伝」(オートハギオグラフィ)、『アレイスター・クロウリーの告白(The Confessions of Aleister Crowley)』のみならず、イスラエル・リガルディーの『三角形の中の目(The Eye in the Triangle: An Interpretation of Aleister Crowley)』やタビアス・カートンの『アレイスター・クロウリー バイオグラフィー (『Aleister Crowley: The Biography 』Watkins Publishing 2012)』、そしてローレンス・スーティンの『汝の意志するところをなせ アレイスター・クロウリーの人生 (Do What Thou Wilt: A Life of Aleister Crowley, St. Martin's Press 2014』などの著作を活用することができます。とくにカートンはクロウリーに関して、他にも2冊の詳細な伝記『Aleister Crowley: The Beast in Berlin: Art, Sex, and Magick in the Weimar Republic (Inner Traditions 2014)』『Aleister Crowley in America: Art, Espionage, and Sex Magick in the New World(Inner Traditions 2017)』を上梓しています。

またクロウリーが常用したそれぞれの特殊用語には、カバラ的、魔術的な深い意味が含まれています。それらを理解するためにはOTOの外なる長、兄弟ハイメナエウス・ベータが編纂した完全版『魔術: アバの書、第4の書 (Magick: Liber ABA, Book 4 Weiser Books 1998)』、特にその膨大な編纂者脚注を熟読する必要があります。またJ.ダイエル・ガンサーが「大作業」について執筆した有益な二冊の著作、ならびに近年OTOのメンバーたちによって次々と発表されているクロウリーの研究書を参照し、その基礎的知識を蓄積していく必要があります。

いずれにしてもクロウリーは、彼の魔術理論の基盤となった西洋の儀式魔術体系、カバラ錬金術と東洋の秘教用語を織り交ぜ、さらに彼の膨大な魔術実験と実体験、考察とひらめきの結果、彼の魔術体系「セレマ」に対する傑出した解説書を書き上げたことだけは事実です。『法の書』が伝達する宇宙観と人間観、彼が高等魔術の基礎と応用を学んだ「黄金の夜明け」団の魔術理論と実践のアウトライン、新しきアイオンの魔術フォーミュラ、霊視の心得から黒魔術に対する考察まで、実に多くのトピックを同書は内包しています。さながらそれは、まさにクロウリー研究者にとっての包括的な秘教オカルト全書です。

 さて『魔術-理論と実践』は本当に万人のための書、初心者を含めたすべての秘教学の志願者たちのために書かれた書なのでしょうか? クロウリーが前提としたこういった前口上はひとまず横におき、この書が本当は誰のために書かれたものかを検証する必要があります。一部の著述家たちは、初心者にとってクロウリーの著作は毒を含んでいると警告しています。この場合の毒とは、ずばり「誤解」という名の毒です。たとえば、クロウリーが「血の犠牲」や「サタン」について語るとき、そこには当然想定されるような黒魔術的要素は一切含まれていません。「血」とは「生命」そのものであり、彼は魔術師の献身と愛の比喩として「血」という言葉を用いています。「ババロンの杯に最後の血の一滴までも注ぐ」という概念は、深淵踏破を目指す達人は、自我を破壊し、個としての欲望を全て捨て去れ、という厳命を指し示し、それは仏陀が涅槃とよんだ個我の消滅を示唆しています。また彼はキリスト教が想定したような全き悪としての悪魔を嘲笑しています。彼にとってのサタンとは高潔なる神、父、太陽、そして創造の主催者なのです。『サメクの書』に収められた「召喚の野蛮な名前」に対するクロウリーの解釈、「サタン、汝、目よ、欲望よ!」などの言葉は間違いなく初心者を惑わすものです。彼は「召喚の野蛮な名前」に含まれる「OOO」という言葉をタロットの札に当て嵌めたカバラ的解釈によって翻訳しています。O、すなわちヘブル文字「アイン」の意味は「目」です。またこのヘブル文字はタロットの15番「悪魔」に照応します。従って彼は「O」という言葉を「サタン、目、(パンの)欲望」と解釈したのです。また繰り返しますが、この悪魔は聖なる神と等価です。愛と創造と達成の証としての悪魔は、OTOの中核儀式「グノーシスのミサ」で称えられる私たち自身の真なる神です。「グノーシスのミサ」が参列者に与える重大な示唆は、クロウリーが「復活の契約」と呼んだ人間性の主体の奪還にあります。「我の中にありて、神に非ざるものなし」という宣言、新たな神学に基づく人間の主体性の自覚と解放こそがミサの重要な働きであり、それは人々に微睡からの「覚醒」をもたらします。ミサが含む聖餐式において参列者は、主の肉体と血を、「光のケーキ」と「葡萄酒」という形で体内に摂取します。そして、聖化された秘蹟を摂取するとき、正に「聖人達との霊的交流」と呼ばれる不可視の力流とのコミュニオンが成立します。私たちが摂取する聖餐とは実際のところ、「混沌」と「ババロン」の子供、両性具有の「バフォメット」の肉体と血です。このバフォメットこそは、人々の恐怖と誤解のヴェイルの向こう側にいる真なる神、そして真なる人間の姿です。『第15の書 グノーシスのミサ』もまた『魔術-理論と実践』の付録に収録された儀式のひとつです。


『魔術-理論と実践』の付録に収められた主要儀式群、瞑想書、聖なる書物は、その約9割強が、彼の魔術結社A∴A∴の成員のために書かれたものであり、残りの1割弱がOTOの団員向けに個別に書かれたものです。つまりその付録をみる限り、『魔術-理論と実践』は万人に向けて書かれた書ではなく、A∴A∴とOTOのメンバー向けに書かれた専門テキストだということになります。ただ、大筋では主にA∴A∴の団員向けに書かれた魔術の解説書とみてまず間違いないでしょう。その理由は明白です。付録に収められた主要儀式群、瞑想書、聖なる書物の多くはA∴A∴の位階訓練カリキュラムからの抜粋だからです。一例をあげましょう。『Oの書』、ならびに『Eの書』は1=10ニオファイトの任務の一部であり、『スター・サファイヤの書』は2=9ジェレイターの任務の一部です。『アシュタルテの書』は4=7フィロソファスの任務の一部であり、『サメクの書』は聖守護天使の知識と会話の達成、すなわち5=6アデプタス・マイナーに課された唯一の任務達成のための儀式書です。付録中の『もっとも聖なる奥義書 Grimorium Sanctissimum』と『グノーシスのミサ』のみがOTOのために個別に書かれた儀式書です。また本文を読んだだけでは気付かないかもしれませんが、クロウリーは明らかにそれをA∴A∴の団員たちに向けて書いており、また補足的にOTOの位階の秘儀を参照せよ、と指導しています。すなわち、この事実こそが『魔術-理論と実践』が難解になる最大の理由です。それは魔術という大ジャンルにおける一つの特殊な発展系に対する解説書なのです。たとえば、彼の瞑想指導書『HHHの書』に含まれるふたつのセクションは、A∴A∴のイニシエーション儀式の式次第に対する内的理解と成長をその目的としています。A∴A∴のイニシエーションの鍵を持ちえない万人が、いかにしてその内的意味を探り、瞑想の目的を達成できるというのでしょうか? またA∴A∴のニオファイトが達成すべきアストラル界の制御と、フィロソファスが挑む「諸界への上昇」をマスターしていない魔術師が『サメクの書』を行うことは到底不可能です。なぜならば、クロウリーはその儀式を実際の肉体ではなく、第2の身体「光の体」を用いて行え、と述べているからです。それは「召喚の野蛮な名前」とともに、対応する元素の方角に向かって光体を極限まで飛翔させ、最後の「霊」のセクションで宇宙の頂点を目指して光体を上昇させ続けることを意味しています。そのためには光体の訓練、例えば数百回にわたるアストラル旅行、ヨガのダーラナーによる集中力の発達、『Oの書』で指導されている五芒星と六芒星の(光体による)適切なる使用に習熟しておく必要があります。

一部の著述家の警告はまさに正鵠を得ているといえます。『魔術-理論と実践』は魔術の初心者にとってはほとんど (まったく?) 役に立たない本です。『魔術-理論と実践』は日本語にも翻訳されていますが、それはオカルト・マニアたちの愛読書というよりは、より正確には鑑賞物として本棚に飾られていることがほとんどです。なぜならば、それは使える魔術書ではないからです。   本当に?

私が初めて『魔術-理論と実践』を読んでから早くも30年近い年月が経過してしまいました。もちろん、それを始めて読んだとき、私の頭の中は無数のクエスチョンマークで溢れかえってしまいました。それはまるで子供が無造作にぶちまけた3000ピースのジグゾーパズルのようでした。大抵5分ほど読んですぐに本を閉じてしまう日々でした。30年後の今はどうでしょう。1990年代に購入した完全版『魔術:アバの書、第4の書 (Magick: Liber ABA, Book 4)』(それは『魔術-理論と実践』を含む『アバの書』の完全版です) はぼろぼろになるまで読み込まれ、ドーバー出版からでた『魔術-理論と実践』のペーパーバックは毎朝のコーヒータイムの愛読書になっています。そして日々、その書から多くのものを学んでいます。今ではクロウリーが冗談半分で書いたであろうと想像していたセンテンスに本当は深い意味が潜んでいることを発見したり、タロットの大アルカナに対応した各章のカバラ的意味について別の解釈を発見したりと読書そのものを魔術修行の一環として楽しんでいます。もちろん、そうなるまでに費やした学習と実践の時間は実に膨大なものです。そしてその過程で実感したこと、体験したことを踏まえて私は『魔術-理論と実践』に関してこう断言したいと思います。

アレイスター・クロウリーという人間は、こと魔術に関しては、いい加減なこと、根拠のないことは書かない」。

もちろん、彼が『魔術-理論と実践』の12章の中で書いている有名な「無垢な男子の生贄」を毎年平均150回捧げた、という記述はたちの悪い冗談です。彼はOTOの第8位階の魔術作業を覆い隠すために、このたちの悪い冗談を使わざるを得なかったのですが、彼の魔法日記を読んだ読者にはその真偽が理解されることでしょう。彼は『魔術-理論と実践』の中で魔術を正確に定義し、関連するトピックを網羅しながら魔術の本質とその訓練課程の実際を明示しようとしました。彼は1921年、シシリーにてA∴A∴の宣言書『視界のひとつの星』を執筆しました。彼は団の位階が持つ、その連続性と目的、ゴールを明示した上で、そのシステムを団外に公布したのです。遡ること1909年、彼はA∴A∴の修行者たちのテキストを断片的に、団の機関誌『春秋分点』誌にて公開し、団員を募り始めました。もちろん、彼は一定数のプロベイショナーを得ることができました。その中には、チャールズ・スタンフェルド・ジョーンズ、JFCフラー大佐、ヴィクター・ノイバーグ、オースティン・オスマン・スペア、レイラ・ワッデル、フランク・ベネットらの弟子たちが含まれていました。とはいえ、その他のプロベイショナーの多くはクロウリーが指導するヨガのポーズひとつにすら、「耐えられない」と苦情を申し立て、またその修行は遅々として進みませんでした。多くの志願者たちのオカルト趣味的嗜好はハードな修行を拒否しました。当然ながら、クロウリーは彼が推し進めようとした「白色同胞団」のコンセプトを早期に成功裏に始動させることができなかったのです。そういった意味ではA∴A∴は昔も今も規模の小さな団体です。

 クロウリーは、少数の弟子たちを鼓舞しながら、ますます彼の霊的径を突き進んでいきます。アルジェリアの砂漠で30のアエティールを踏破し、深淵を越えてNEMOとなり、A∴A∴の秘密の首領の一人、アブ・ウル・ディズとの邂逅によって、『アバの書, 第四の書』を著しました。悪名高き「パリ作業」でOTO高位階の魔術実験に没頭し、聖堂騎士団を復活させ、また妖術師アマラントラと接触し、彼の魔術システム発展のための大きなヒントを獲得しました。シシリーのセファルーに「セレマの僧院」を設立した彼は、そこで『魔術-理論と実践』(それは『アバの書, 第四の書』の第3部として執筆されました)の主要部分の作成にとりかかります。正にクロウリーの魔術人生のひとつの円熟期に『魔術-理論と実践』は執筆され、最終的に1929年にパリにおいて出版されたのです。クロウリーにとってA∴A∴とは、魔術と神秘主義の実践的学舎であり、OTOとは彼が受け取った93の流れ=THELAMA公布のための魔術的乗り物でした。彼は、A∴A∴の公的発行物として『魔術-理論と実践』(『アバの書, 第四の書』)を公刊し、『春秋分点』誌同様、彼の魔術哲学の集大成としてそれを公開したのです。繰り返しますが、『魔術-理論と実践』とは、魔術という大ジャンルにおける一つの特殊な発展系に対するSpecificな解説書です。魔術の初心者が一から学べる便利な入門書とはまったく逆の位置にある難解な文書群の寄せ集めです。


 従って、『魔術-理論と実践』を理解するためには---それは実際、とてつもない価値を内包した究極の魔術の奥義書なのですが---いくつか注意が必要です。『魔術-理論と実践』は決して単独の読書だけでは意味をなさないのです。それは彼の人生と魔術・神秘主義観を反映した複合的な実践的哲学書なのです。こんなにも厄介で不親切な本は、他にはありませんよね! 
さて『魔術 理論と実践』を理解するためのポイントをいくつかあげてみましょう。

1. カバラを理解すること。それは「黄金の夜明け」団が発端となって20世紀以降に急速に拡大した魔術的カバラを理解することを意味しています。特に基本となる22のヘブル文字の照応を徹底的に頭に入れることです。またギリシャ語アルファベットに関する基礎知識も役立つでしょう。クロウリーカバラは、『777の書』に対する深い理解と「生命の樹」やタロット象徴への深い解釈をその基礎においているといっても過言ではありません。また彼はゲマトリアを用いて、彼の魔術理論や接触した知性体の正当性を検証する習性があったことも忘れてはなりません。
2. 「黄金の夜明け」団の儀式魔術の骨子を理解すること。クロウリーが「黄金の夜明け」団のメンバーであった時代、彼を指導していたメンターは主にアラン・ベネットとジョージ・セシル・ジョーンズ(後のA∴A∴の設立者の一人)の二名です。『魔術-理論と実践』の付録に収録されている『Oの書』は、クロウリーが「黄金の夜明け」団で学んだ技術に依拠しています。また『魔術-理論と実践』の本文に含まれている儀式魔術に関する解説を理解し、役立てるためには「黄金の夜明け」団の儀式魔術の骨子、儀式のプロセスや所作などを理解していなければなりません。
3. 東洋の体系を理解すること。特にラージャ・ヨガをはじめとした各ヨガ(ハタ、バクティ、カルマ、マントラなど)の理論と実践についての基礎知識は必須となります。また彼は中国の易経の深い理解者でもありました。
4. A級刊行物に関する知識。『法の書』はその筆頭に置かれます。全部で13冊あるA∴A∴の聖なる書物、加えてクロウリーの魔術記録『霊視と幻聴』(それ自体、極めて難解な代物ですが。) は必ず並行して学習されなければなりません。むしろクロウリーの人生は、それらA級刊行物の理解に捧げられていたといっても過言ではありません。実際にそれは、魔術師の人生に大きなヒントを与えるだけではなく、膨大な叡智を内包しています。
5. 魔術を体験すること。『Oの書』に含まれている「五芒星小儀礼」や「六芒星儀礼」などから始めることができます。また魔術の入門書を頼りに独習するもよし、魔術団体に入団を求めるもよし、いずれにしてもあなたは魔術を実際に体験し、その内的感覚を体感し、願わくは魔術がなにを制御し、なにを達成しようとしているのかを知っていなければなりません。『魔術-理論と実践』に書かれている様々なセンテンスがあなたの琴線に触れる、といったような体験をあなたは恐らくするでしょう。
6. アレイスター・クロウリーの人生を理解すること。クロウリーの人生において、いつ何が起こり、どういった出来事、または変化が起こったかをつぶさに検証することは彼の魔術を理解する上で、とても大きな助けとなります。私のお勧めは、先に述べたタビアス・カートンの『アレイスター・クロウリー バイオグラフィー (『Aleister Crowley: The Biography 』Watkins Publishing 2012)』です。

思えば『魔術-理論と実践』を含む完全版『アバの書, 第四の書』は、つねに自室の机の上、儀式の祭壇の上に置かれていました。それは書物である以上に、私にとってはとてつもなく強力な魔法武器でした。30年ひたすら読み続け、それはいまだに私の日々の学びに大きく役立っています。

私のこの拙い文章が少しでも皆さんの探究に役立つことを祈りながら、この日記を締めくくりたいと思います。

Love is the law, love under will.

Journey to the East 東遊記

Do what thou wilt shall be the whole of the Law.



イベントのお知らせです。関東を中心に活動中の東方聖堂騎士団(O.T.O)東京支部ヒル・オアシスは、2019年4月6日〜7日の2日間、オースルラリア・グランドロッジのグランドマスター、フラターSHIVA X°と他3人のメンバーを迎えての魔術講義を開催します。イベントのホームページとして下記urlが開設済みです。
またチケットのご予約は、2018年3月21日の春分の日より開始の予定です。

http://otojapan.org/nihil/event2019.html

講義はすべて英語で行われますが、日本語の翻訳も用意されるとのことです。
ただし、団外から参加をご希望される方については、下記の注意点があります。

「日本在住の聴講希望者様は、招待制となっております。予約スタートとなりましたら、面識ある当団メンバーに聴講希望の旨をお伝えいただき、「紹介者欄」に団員の名前をお書き添えの上お申込みください。」

今回のイベントは、東洋と西洋のエソテリシズムの双方に焦点をおく他、おそらくフラターSHIVA X°からは濃厚なO.T.O.論が展開されることと思います。

皆さんと会場でお会いできることを楽しみにしております。

Love is the law, love under will.

Path of Magician

Do what thou wilt shall be the whole of the Law.

魔術師とは意志と想像力を駆使し、世界を変化させるクリエイターであると同時に内なる探究の旅を続ける冒険者でもあります。魔術師は、広大で未知なる宇宙、そして自身の魂の本質を理解するために、象徴的縮図としての「生命の樹」を活用しながら、それを長い旅路の地図として用います。魔術師の径は永久への憧憬に対する霊的帰巣本能によって初めて開かれ、自分自身の真の意志の発見とその実現に向けて緩やかにその歩みを開始します。しかし、魔術師の径は起伏に富み、峻烈な壁と多くの落とし穴にみちています。20世紀最大の魔術師アレイスター・クロウリーは、その径を可視化し、明確化するために様々な象徴と寓意、思考の糧と試練にみちた一連のイニシエーションを提案しました。その根幹にある哲学は、イニシエーションを通じた人生の旅路において、新たな知恵を獲得し、自分自身を刷新するための生き方を学ぶというものです。秘密の知識やサインの伝達は、その一要素にはなり得ても、決してその変革の主軸にはなり得ません。

だれもが瞬間的に経験したことのある自由への渇望、人々が求める自己変容のための柔軟な哲学、新しい神学を打ち立て、恍惚の門を押し開くための学び。その目的を定めた熱望者のために『法の書』は”罪の言葉は抑制である”と私たちに問いかけます。自由とは、気まぐれで散発的なOpusの累積の途上にはなく、フォーカスされ、意志された孤独な自己分析と戦闘の先に横たわっています。マスター・セリオンが述べる通り、意志とは即ち法であり、その根本的性質は愛です。”愛は法なり、意志の下の愛は”とは多義的な意味合いを含んだ人生の金言でもあります。マスター・セリオンは、汝の意志を見出し、一点集中と超然と平和とともにある意志によって、それを為せ、と厳命します。とはいえ、これは人々を途方に暮れさせるに十分な厳格な命題です。

魔術師は現代社会の画一性と価値観に抗う反逆者にして破壊者であり続けます。その一方、彼は一つ一つの煉瓦を積み上げ、天を目指す神殿建設者でもあります。黄昏の回廊をくぐり抜け、魂の霊薬を抽出する現代魔術師は、第2の身体を駆使し、視えざるものを可視化し、世界を刷新します。魔術師の径とは、永久へと続く驚嘆の旅路なのです。


その一方で、人はなぜ魔術師の径を目指し、そこを歩もうと欲するのでしょうか? つまり魔術師を目指す目的はなにか? という単純な問いかけです。この問いは単純すぎるがゆえに、答えるのがとても難しいかもしれません。私自身もそうでしたが、ほとんどの初心者はその問いに対する明確な答えをもってはいないのです。とはいえ、それが悪い、というわけではありません。魔術師の径という未知の道程との出会いは人それぞれですが、ほとんどの人たちは、それを明確に定義できないまま、この径に踏み込むのです。

魔術師を志す多くの人たちはすぐに途方に暮れてしまうかもしれません。彼、または彼女はいったい何からはじめればよいのでしょうか? 魔術の教師はどこにいるのでしょう? どんな本を読み、何を実践すればいいのでしょう? また同好の志、仲間と出会う方法はあるでしょうか? 魔術を教えてくれる専門団体とは、どうやって連絡をとればよいのでしょう?
私の個人的な体験においては、まず真っ先に魔術の師匠を探し、然るべき団体に入団を乞うことから始めました。またある人は、先に入手し得る限りの専門文献を読み漁り、十分な情報をかき集めた上で、次の行動について熟慮しようとするでしょう。

魔術結社を探し当て、その門戸を叩くことに関しては、以前「魔術結社への参入に際して」という日記に綴ったことがあります。
http://d.hatena.ne.jp/HierosPhoenix/20150417
その中で、私はこう書いています。「ところで魔術結社への参入を希望するということに本当に意味があるのでしょうか? この問いに答えることは実はそう簡単なことではありません。なぜでしょう? もしその問いに対してシンプルに答えるとするならば、「魔術の実像を描けない志願者は、容易に落胆し、容易に結社から去る」という事実を挙げることが出来ます。実際、そのような場面を沢山見てきました。」さらに私は次の文章で日記を締めくくっています。「そして最も重要なことは、常に作業に貪欲であり続けることです。維持する力は、なににも増して強大な意志の技です。魔術の最大の才能とは「常に自分を燃え立たせる能力」です。常に自分自身を鼓舞し、熱望を抱くことが出来なければ、すべての魔術的行為はいずれ空虚なものになっていきます。誰も他者に修行を強要することが出来ないがゆえに、個人が抱く大望の大小がその人の魔術的能力を決定します。」


ある種の人たちにとっては、魔術結社の門戸を叩くこと自体が大きなチャレンジかもしれません。そしてたとえ結社に入れたとしても、ほとんどの人たちは修行を継続することができないのです。「魔術」とは方法であり、私たちが達成すべき目標は「大作業 Magnum Opus」として定義されています。錬金術における「大作業」は卑金属を金へと変成させる一連のプロセスの総称、または「哲学者の石」の完成を意味します。またJ.ダニエル・ガンサーはA∴A∴の「大作業」の過程をシンプルに3つに分割しています(それはA∴A∴の3つのOrderにそれぞれ対応しています)

●第一段階ニグレド黒化: 魂の暗き夜、腐敗による解体、または破壊 第1団 G∴D∴
●第二段階アルベド白化:霊的啓発、腐食と減衰からの解放、浄化 第2団 R∴C∴
●第三段階ルベド赤化:神への昇華、統一、完成、哲学者の石、沈黙 第3団 S∴S∴

またガンサーは、この大作業の過程を「回帰の大いなる径」と命名しました。その過程は、秘儀参入の道程、すなわち「死 / 生 / 誕生 / 妊娠 / 受胎 / 統一化 / 無化 」として定義されています。参入者はまず死せる神オシリスとして祝祭され、人生の径を歩みます。やがて彼は深淵において赤子となり、さらに宇宙的な子宮に回帰し、その先にある原初のエデンに向かってさらなる回帰を果たすのです。この径は錬金術的な破壊と統合、そして神秘主義的な無化への変成のプロセスです。


錬金術の素朴で、基本的なイデオロギーはこうです。
宇宙はすべて単一の聖なる原因より流出している。「全」= 「一」。
振動率の低い粗雑な物質を変性し、その振動率を高める技法を適用し、卑金属(低振動) を金(高振動) へと変成させる。また哲学者の石に含まれるPANACEA (宇宙の霊薬) を抽出し、不老不死を獲得する。

もちろん、物理的な銅を金に変成させることは不可能です。中世の難解な暗号文書と美しくも蠱惑的な版画の数々は錬金術に対する夢想と憧れの産物なのでしょうか? 一方、20世紀以降の近代魔術の歴史において、彼らはどのように錬金術へアプローチしたのでしょうか? 代表的なものはおおよそ下記のようになります。


1. ユングに代表される心理学的アプローチ: 個性化のプロセス
2. 実験工房における実践的アプローチ: 植物、鉱物、金属からエッセンスを抽出
3. Psycho Spiritual Yoga : 精神と肉体の統合。哲学者の石を脳内に生成
4. アレイスター・クロウリーの性魔術的アルケミー: OTO (Fraternitas Lucis Hermeticae)

ユングは難解な錬金術の暗号が表象するものこそ個性化のプロセスであり、いわば魂の精錬による人間性の完成を表していると考えました。若き日のイスラエル・リガルディーが『Philosopher's Stone』を上梓したとき、彼の考え方はユング同様に、心理学的な解釈に傾いていました。ところが、そんなリガルディーの錬金術理解を一変させた人物が現れます。1911年生まれのFrater Albertus Spagyricus、ことアルバート・リチャード・リデル博士その人です。米国のソルトレイクシティーに「パラケルスス調査協会」を設立したリデル博士は、そこで実験工房型の錬金術の研究と指南に従事します。「パラケルスス調査協会」を訪れ、リデル博士と議論したリガルディーは実験工房での錬金術実験を見学し、大きな衝撃を受けます。それによってリガルディーは錬金術に対するアプローチを一変させます。晩年の彼は、正に実験工房型の錬金術の虜となってしまったのです。
Psycho Spiritual Yogaは7つのチャクラと独特の象徴を用いた瞑想をそのベースに置いていますが、その技法はジョン・ウッドロフ卿のタントラ・ヨガ的著作『The Serpent Power』に強い影響を受けています。アレイスター・クロウリーの性魔術的アルケミーはOTOの第7位階以上で教示される一連の技法を土台として、20世紀後半に一気に有名になった、いわゆる性魔術の体系です。


A∴A∴の「大作業」における3つの過程、ニグレド黒化/ アルベド白化 /ルベド赤化はそれぞれ「聖守護天使のヴィジョン」/ 「聖守護天使の知識と会話」/ 「深淵横断」という3つの試練の達成を要求します。私は個人的にこの錬金術的作業に従事し、その径の途上にいますが、あらゆる魔術団体は団の作業と目的を定義し、その径を目に見える形で提供しています。そして団に参入した魔術師たちは、団で規定されたOpusに従事し、魂の精錬作業に没頭することになります。とはいえ、ここに問題が潜在しています。団に入団するにしろ、ソロとして教程書に従って学習・実習するにしろ、ほとんどの志願者たちは自らのモチベーションを、そう長くは維持できないという問題です。なぜでしょう?

魔術の訓練とは、あなたの日常に従来、「非日常的」であったものを持ち込むことを意味します。日々の生活の中に唐突に浸入してきた新たな生活習慣は、長年培ってきたあなたのリズム、思考、感情、行動に少なからぬ影響を与えることになります。それらの影響が、新たな刺激となって魂の変性の第一段階が開始されるのです。とはいえ、人間はそう簡単に今までの自分と決別することは困難です。社会生活においては、誰でも大切な人間関係があります。緊張と緩和、社会生活の中の厳しさと、それを癒す親しき人たちとの談笑。それが大切なものであることは確かです。しかし、ここで立ち止まって考えてみることが重要です。この世の中には魔術訓練から逸脱させるための誘惑がいかに多いことか! クロウリーは人類の進化の最大の障害物は、一言で表現すると「ノイズ」であると断言しています。そしてこの厄介な「ノイズ」があなたの周囲に渦巻いていることを、まずは最初に認識することが重要です。訓練をおざなりするための理由はいくらでもあります。基礎訓練の代わりに寝そべってテレビや映画を観ること、親しい友人と週に3回飲み歩くこと、新刊の小説を読み耽りたい願望、ギャンブルやドライブ・・・あなたの周りは魔術訓練を無化してしまうもので埋め尽くされているのです。魔術の才能とは、優れた視覚化能力でもなければ、類まれな知性の閃きでもありません。「意志の持続力」なのです。あなたが最初に抱いた大望を維持し、自分自身を鼓舞し続けることが出来る才能こそが重要な力なのです。

“今こそ「だから」とその同類に呪いをかけよ!”
“ 願わくは「だから」が永遠に呪われんことを!”
“もし「意志」が立ち止まり、「だから」を召喚しつつ「何故」と叫ぶならば、「意志」は停止し何をも為さぬ”
“もし「力」が何故と問うならば、「力」は「弱き者」となる”
                    『法の書』 第二章 28〜31節


単純で退屈な魔術訓練のつまらないことといったら!
すべての志願者が訓練の初期に抱く正直な感想こそがそれです。「なぜ?」を自分に問いかけることは決して悪いことではありません。しかし、訓練をサボるための「なぜ?」は、あなたの意志を減退させ、やがては作業の放棄へとつながることを十分にリマインドしなければなりません。魔術の入門書の多くが、魔術の実践的側面についてコメントするとき、最初に決まってリラクゼーションについて触れるのには理由があります。リラクゼーションとは、第一に、魔術的意識へと埋没する際の不可避の前提となります。リラクゼーションとは肉体と精神双方のリラックスを表し、それは相互に関連しあってしています。精神のリラクゼーションを抜きにして肉体の緊張を緩めることは困難であるに違いありません。また仕事や学業、人間関係の軋轢に心惑わされていては、肉体の隅々の筋肉は硬直してしまうでしょう。この硬直は意識と無意識の門、その境界線さえも硬く閉ざしてしまうことがあります。つまり、精神の緊張は肉体の緊張を生み、より深い無意識領域での精神活動を拒否し、現実社会での活動の準備のために肉体を臨戦体制のままブロックしてしまうのです。心身の相関関係を鑑みれば、肉体だけに的を絞ったエクササイズは大抵の場合、効果を得るまでに時間がかかります。したがって重要なことは、まず精神を解放し、喧騒と反射いう名の戦闘態勢から脱却すべく、肉体に指令を下すことから始めなければなりません。

その前に、実践魔術において果たすリラクゼーションの意味を考察してみましょう。魔術の行為の多くは実のところ、現実社会における活動とは別のスペクトルに意識の焦点をあてています。あるいは日常生活におけるそれとは異なった脳の領域にアプローチする必要があるのです。もちろん、修行を推し進めた経験豊かな魔術師ならば、特にこれらの意識のスペクトルの区分を気にかけることもなく、ごく自然に適切な能力を駆使することができます。というよりもこれらの意識のスペクトルの区分や階層は徐々にとり払われて、いついかなるときもマジカルでいられるようにすらなるのです。いずれの場合でも、魔術的オペレーションの主導権を掌握しているのは、あなた自身です。他人の決裁を仰ぐ必要はありません。あなた自身が世界の中心に座し、あなたの内面に眠る小宇宙と対面し、探索し、制御する者になる必要があります。この場合、必要な能力はスムーズに魔術的意識を喚起し、象徴言語を把握する為の直観力を呼び醒まし、異世界の門を開く為の第一段階としてのリラクゼーション作業です。つまりそこから魔術作業が始まるのです。

したがってリラクゼーション作業そのものは、異世界への門となることに注目しなければなりません。この前提作業抜きには魔術作業自体が成り立たなくなると認識することも重要です。また、ヨガの体系によれば、肉体が真にリラックスした状態に移行すればプラーナはイダやピンガラではなく、スシュムナに直接流れ込み、火の蛇クンダリーニを活性化する、と指摘しています。この事実は呼吸とリラクゼーションが相互に関連していることを私たちに教えてくれます。また、瞑想や儀式作業、アストラルの門をくぐるに際してもリラックスは、その基礎作業となります。

魔術師の径への参入を希望し、その峻厳なる道を歩み始めた冒険者の多くが道半ばで径から離脱していくさまを私はたくさん見てきました。魔術結社に入ること、あるいは魔術の修行を開始することは、そんなに難しいことではありません。繰り返しますが、達成へのモチベーションを維持し、自分を鼓舞し続けることこそが難しいのです。私は、自分自身の経験から魔術師の径を歩む上での重要な留意点を下記に述べたいと思います。それは4つの事項と1つの重要な質問からなっています。


◆目的を定めること
◆目的を達成するためのPathを定めること
◆具体的な計画を作成すること
◆生活基盤の安定
◆幸福であるかどうか?


少し解説が必要でしょう。まず「少年よ、大志を抱け この老人の如くBoys, be ambitious like this old man」と述べた米国の教育者ウィリアム・スミス・クラークは偉大だったということです。魔術師を志願する者は、大志を抱くべきです。そしてなにを目指し、どこへ向かうのかを明確に知っていなければならないのです。これは魔術修行の目的を明確化し、ゴールを定めることを意味しています。まず目的が不明確だと、修行者のPathそのものものも曖昧になり、前進は難しくなります。もちろん、魔術の道に入りたての初心者が、いきなり「深淵を横断」することをその目的とすることは馬鹿げたことのようにも思えます。しかし、魔術師の目的は具体的である必要があります。ただ、もし、あなたの目的が「惑星の護符を作成し、財を得ること」だったり、「大天使を召喚し、恋愛を成就させること」であったならば、あなたの魔法修行は3ヶ月と続かないでしょう。私たちはなによりも長期間にわたって自分自身を鼓舞し続けることができる大志を抱く必要があるのです。テクニックや方法論を越えた無窮への憧憬を摘み取り、その衝動を「大作業」への邁進の燃料として燃え上がらせなければならないのです。多くの志願者たちが脱落していく最大の原因は、無目的にその径に踏み込み、自分を律することの意味について無知であり続けることによって顕在します。したがって退屈で緩慢な基礎作業にすぐに根を上げ、失望してしまうのです。躊躇する必要はありません。大胆にあなたの大志を明言してみて下さい。さて、あなたの魔術の目的はなんでしょうか?

目的が明確になったとき、はじめてゴールに到達するための道のりが、おぼろげながら見えてきます。その径を想定し、把握し、視覚化することに果敢に挑戦して下さい。あなたの大志を実現するための、あなたにとって最善最適の径を見出すことはできるでしょうか? またその径を提供してくれる団体はみつかりそうでしょうか? しかし、ことはそう単純ではありません。この最善の径を発見するまでに数年かかることはよくあることです。自分の目的に則した訓練体系、実践カリキュラム、団の構造など、それらについて幅広く情報を収集し、ゴールまでの長い道のりを想定するのです。この点、A∴A∴は非常に明確です。位階構造、実践カリキュラム、団の指南書などはほぼ公刊されており、またネットでも簡単に手に入ります。魔術師の径を歩むことは、書籍の中の誰かの出来事ではありません。それは、あなた自身のあなたのための固有の径なのです。

続いて、魔術師は目的達成のための計画を立てます。これは多くの魔術修行者がもっとも苦手とする作業です。目的が定まり、その径が想定できたならば、それを自分の人生上に計画としてあてはめるのです。曖昧で、恣意的な行動を避け、意志の力とともにある計画に則って径を邁進するよう努力するのです。目的達成のための計画は魔術師が径を踏破するための必須の要素であり、計画不可能な目的は決して実現しないのです。たとえば、あなたが、とある団のプロベイショナーとして迎え入れられたとしましょう。その教程を終えるためには、おおよそ9カ月かかるとしてみましょう。あなたは、その教程を計画通り9カ月間で修了すべく努めるべきです。その教程を1年半かけて修了することを、私は決してお勧めしません。もちろん、人にはそれぞれ個人のペースがあります。また9カ月間で教程を終了することは、必須条件ではないでしょう。実習に疲れたならば、中休みし、気持ちをリフレッシュすることも大切です。ただ私は、そうして魔術の径から結局は離れていってしまった多くの人たちのことを知っています。「魔術修行にノルマはない」。確かにそうでしょう。ただし、一旦ペースを緩めてしまい、自分を鼓舞することを忘れてしまったら、あとはお決まりの妥協への道をまっしぐらです。あなたは毎月提出する魔法日記を放棄し、机の上にあった団のテキストを引き出しの奥深くに仕舞いたくなるでしょう。
あなたは、いつプロベイショナーを終了し、いつニオファイトへと進み、いつ内なる団に迎え入れられるのでしょうか? あなたは、そのスケジュールをあなたの人生の一部として設計すべきです。達人とは、すべからくそれが可能な人たちのことをいうのです。繰り返しますが、計画を立て、それに基づいて行動することは、多くの魔術修行者たちがもっとも苦手としている作業なのです。

さて魔術修行の基盤は、修行者の安定した社会的立場の確立によってはじめて機能します。社会生活をおざなりにする修行者はむしろ自由を失い、長期にわたる魔術師の径を踏破する基盤を失ってしまいます。これが4つめの事項「生活基盤の安定」です。これは自由をはき違えてはならないという警句でもあります。マクレガー・メイザースアレイスター・クロウリーはさておき (彼らはまるで憑りつかれたかのような魔術の天才たちであったわけですが)、私は修行過程の進んだ現代の達人たちが社会人としても、盤石な立場を築いていることをよく知っています。不安定な経済状態は生活基盤の安定を阻害し、修行に没頭する魔術師に障壁をもたらすでしょう。「生活基盤の安定」はマルクトの神殿の完成を補完し、あなたに自由に飛翔するための翼を与えてくれます。この事項は決して軽視してはならない最重要事項といえるでしょう。

そして私は、最後にあなたに問う事になります。あなたは、いま幸せでしょうか?
もしあなたが不幸の只中にあるならば、魔術修行は苦痛以外のなにものにもならないでしょう。儀式は機能せず、瞑想は頓挫し、魔術師の径は崩壊してしまいます。私は、魔術に関心を抱く志願者のほとんどが、精神に何らかの問題を内在させていることを熟知しています。彼らは心の闇を直視する恐怖と現実回避のために魔術の世界に救いを求めています。しかし、自発的な規律と制御を要求する魔術師の径は、「癒し」よりもむしろ「破壊」をもたらします。もちろん、それは再生のための不可避の創造的破壊の作業ではありますが。
もし、あなたが今、幸せでないならば、魔術師の径に踏み込むことは止めておいた方がいいでしょう。反対に、もしあなたが、人生の荒波の中で心を強く保持し、小さな幸せに対する感受性に敏感であるならば、あなたの径は、その遠い道のりを照らしだす力を持っているといえます。そう、魔術師は幸せでなければならないのです。

“ 汝ら一同、覚えておくがよい。存在は純粋なる喜びであるという事を。全ての哀しみは影の如きものにすぎぬという事を。それらは通り過ぎついえるものであるが、留まるものもあるという事を。”
『法の書』 第二章 9節

「大作業」に対して真摯に向き合わず、計画と戦略と喜びを持たない志願者たちはすべて魔術師の径を歩むことなく脱落していきました。さてあなたは、あなた自身の魔術師の径とどのように向き合い、またどのようにしてそこに幸福を見出すのでしょうか? いまあなたの眼前には未踏の宇宙と、か細い光の径が横たわっています。あなたに幸福が訪れんことを!

Love is the law, love under will.