今回は2019年4月6日に開催されたO.T.O.東京シンポジウム「験」で実施した私の講義の内容をアップいたします。なお、一部加筆修正しております。
涅槃、消滅、三角形の中の眼への回帰
汝の意志することを行え、それが法の全てとなろう
まず、最初に今日のこの講義の機会を与えてくれたニヒル・オアシスに感謝いたします。今日は私にとって素晴らしい機会です。私はここにいる皆さんと私の考えを共有したいと願っています。 しかし、私はこの講義の冒頭で私のアイデンティティーを明確にしたいと思っています。というのも、今日、私はちょっと奇妙なことを皆さんにお話しすることになるかもしれないからです。 私はこの30年余りのあいだ、カバラ、タロット、儀式魔術、ヨガの瞑想や秘教的なシンボリズムなど、主に西洋式の魔術と神秘主義を複数の魔術結社で学んできました。
私は1904年にアレイスター・クロウリーが受け取ったとされる『法の書』に触発されて魔術と神秘主義の探究を開始しました。当初、私はまずO.T.O.への参入を求めました。しかし、残念ながら、すぐには参入は叶いませんでした。
私はまず近代的で典型的な西洋スタイルの魔術、そう「ヘルメス的結社黄金の夜明け」団にその基礎をおく体系から私の旅を開始することを決めました。 そのシステムは合理的で穏健であるだけでなく、効果的なシステムでもありました。
私はその体系に夢中になりました。同様にそれは若き日のアレイスター・クロウリーが学んだシステムでもありました。 ある時期、私は「黄金の夜明け」団の完全な神殿をここ日本に設立しようとしたことさえありました。私は南半球に住む高名な「黄金の夜明け」魔術師と3年間にわたり文通し、熱意とともにそのシステムを学習しました。
もちろん、私の心はセレマやニュー・アイオンの概念、アレイスター・クロウリーに惹きつけられていたことは確かです。ですが、私の旅は、私が当初望んだ道とはいささか異なる道を歩むことになったのです。
なぜ、私は「西洋のスタイル」を選択したのでしょうか? その問いに答えることは、とても難しいことです。
ここで私の個人的な体験を語りましょう。私はそれについてすでにいろいろな人に話しているので、もしかしてあなたはその話を聞いたことがあるかもしれません。いずれにしても、それは30年前に起こりました。 ある日、私が懇意にしていた友人が、ちょっと奇妙な依頼をしてきました。
その依頼とは、とある本を読んで、その内容について解説してくれないか?というものでした。彼女によれば、その本は本物の悪魔主義者が書いた「呪いの本」だというのです。しかし、それはまるで古色蒼然とした秘密の暗号文のような難解な代物だとのことです。
私はミステリー小説が大好きでしたし、私にはその謎が解けるかもしれないという何らかの確信がありました。彼女は、私を書店へと連れて行き、問題のその本を購入しました。それが『法の書』の翻訳本でした。
私は喜び勇んで本を持ち帰ると、本の封印を破りました。そう、著作権を無視して勝手に出版された『法の書』の翻訳版には驚いたことに注意書きを記した封印がしてあったのです。なんでも封印を破った人たちには9ヶ月以内に、なんらかの災厄が降りかかる可能性があるというのです。
うむ、この本は私を攻撃し、不幸をもたらすつもりなのか? 私が知る限り、私は「正義」の戦士を自負していましたので、不道徳極まりない悪魔主義者が書いた本にひるむつもりなどありませんでした。 あとで分かったことですが、それは出版社が考えたナンセンスなギミックでした。
それは難解な本でした。私はまったくといっていいほどそれを解読することができませんでした。それは狂人によって書かれた荒唐無稽な散文詩でした。
私はすぐさまその本を閉じました。 別の日にまた暗号解読を試みました。しかし、それが成功することはありませんでした。私は失望せざるを得なかったのです。
ある日、突然その劇的変化が到来しました。 眠りに就く前、私はベッドの中で『法の書』を読んでいました。その本は相変わらずただの暗号文でした。眠りにおちる直前、私はその本を閉じました。 そして浅い眠りにおちたのです。
私は静かに夢の中で目覚めました。 私の眼前には無数の星々がきらきらと輝いていました。 私は広大な夜空を見上げながら、中空を浮遊していました。
星々の美しさたるや、この世のものとは思えないものでした。
私は夜空を漂いながら、私自身の存在を完全に忘却しました。
やがて私の顔の上に壮麗な夜空から甘酸っぱい雫がふってきました。
雫は私に究極の恍惚をもたらしました。
それは私が未だかつて体験したことのない至高体験でした。
同時にこの究極の意識状態は強烈な郷愁、懐かしさを帯びていました。
そう、私はたしかにこの恍惚を知っている・・・という感覚です。
透き通った空気と心地よい風が私を包みこみました。
私は制限のない夜空の恍惚そのものとなりました。
私は言葉を忘れ、あらゆる概念から解き放たれ、そして私自身の存在すら忘却しました。私は恍惚そのものであり、「虚無」へと溶け込んでしまったのです。
私には、もうなにも考えることができませんでした。
そう、私はこの二元性の世界から消え失せたのです。
私は遠くに流れ星をみました。 私は彼方に輝く街の灯をみました。
私は少しずつ現実世界へと戻っていきました。
私はその恍惚が収縮すると同時に実際に目覚めました。
私は、その究極の状態と至高体験を喪失したのです。
私はとても残念に思い、そして悲しい気分にみたされました。
私は目覚めると同時にその天国を失ってまったのです。
なぜこのような究極の体験をしたのかは説明不可能でした。とはいえ、その体験は私に『法の書』を理解するための重要な鍵を与えてくれました。
“ われは地上においては想像もつかぬ程の喜びを与える。生ある間に信仰ではなく、確信を死の上に。言葉では言い表せぬ平穏、静寂、休息、恍惚を。われは如何なる生け贄をも要求せず。”
『法の書』第一章58節
そのかなりあと、私は他の『セレマの聖なる書』の素晴らしいほかの文脈を発見しました。
“ 私はあなたを愛する。私は不滅の聖なる雫をあなたへとふり撒く。この不滅は墓所の彼方の儚い希望にあらず。私はあなたに至福の確たる意識を与えよう。”
『ツァダイの書』28-29節
この体験は私に覚醒をもたらしました。そう、私は自分自身の体験を天空の女神ヌイトの偏在の体験だと理解したのです。
その貴重な体験こそが、私をして「西洋の道」へと誘ったのです。そしてこの体験こそが今日、私がお話しようとしている講義の内容と関連しています。それは「大作業」のゴールについてです。J・ダニエル・ガンサーはそれを「無化 Nulliversion」と呼んでいます。
私は1995年にO.T.O.にイニシエートされました。そして私は自身の支部の名前を「Sky Goddess Nu」キャンプと名付けました。それはまだ魔術を学び始めた最初の段階で私が体験した究極の恍惚体験に由来していることはいうまでもありません。
1995年当時、私はオカルティズムを学び始めて6年が経過していました。
その段階においても私はO.T.O.以外の魔術団体に所属していて「黄金の夜明け」団のシステムと深く関わっていました。
しかし、ある瞬間から……私はセレマのみに集中し、情熱を捧げるようになりました。とはいっても、ここでその間の私の紆余曲折について語る時間はありませんが。 現在の私は、ただ「セレマイト」です。
なぜならば、私はセレマが普遍的かつ包括的な「径(みち)」であることを完全に理解し、それが「汝の意志することをなせ」という言葉によって表現される自由への飛翔を叶える体系であることを理解したからです。
ところで、私の講義のタイトルはなんだか奇妙だと思いませんか?
まず最初に「ニルヴァーナ」という言葉。「涅槃」はもっとも有名な仏教用語です。
つづいて「Annihilation」消滅(あるいは無化)という言葉。もしあなたがO.T.O.の位階制度に興味をおもちならば、たとえば『楽々魔術 Magick Without Tears』のような本でその言葉を読んだことがあるのではないでしょうか?
この言葉は私たちの「聖なる団」の参入システムのなかで、もっとも重要な言葉です。そして最後に「三角形の中の眼」。
それはいささか曲解されているものの、いまや普遍的なオカルト・シンボルとなっています。この重要なシンボルはまたO.T.O.のトレードマークにも描かれています。そして、それはまたA∴A∴においても極めて重要なシンボルとして登場します。
ですが、私の講義のタイトルは「三角形の眼」への「回帰」です。
それはどこかの「場所」を暗示しているのでしょうか?
それは今日、私が皆さんにお答えしなければならないものです。
ここで私の講義のアウトラインについてお答えしましょう。 「涅槃」「消滅」「三角形の中の眼」とはすべて同じ概念をあらわしています。順次、それについて説明していきたいと思います。
さて、ここで少し話題を変えましょう。私が所属しているふたつの魔術結社についてお話しさせて下さい。それぞれA∴A∴、O.T.O.と呼ばれている独立したふたつの組織です。
それらふたつの結社について、とりたてて私がなんらか新しいことを述べたてる必要はないでしょう。それらふたつの結社の独立性、あるいは関連性については既に多くの議論が繰り広げられているからです。
特に「二重性」として知られる両者の相互関連性は、私たちの分野における新しい流行でもあります。
私は、これについて少し慎重です。それは有益な学びであると同時に、論争のタネともなり得るからです。しかしながら、それは確かに価値ある実践的ヒントを私たちにもたらしてくれます。
そう、それはたんに象徴的なものではなく、より特殊なヒントを私たちに与えてくれます。 まず最初にふたつの結社の重要なシンボルについて言及しましょう。ひとつは有名なO.T.O.のトレードマークです。そしてもうひとつはA∴A∴の印章です。
「シジリウム・サンクトゥム・フラタニタトゥスA∴A∴」とは「銀の星の兄弟団の聖なる印章」という意味です。この印章の中心的シンボルともいえる「ババロンの星」が円の中に描かれています。
七芒星のそれぞれの角にはBABALONの各1文字が刻印されています。そして印章の上部には円と十字架( X )からなるN.O.X.のサインがあります。
それは特殊用語で「パンの夜」という新しいアイオンの術式を表しています。
中央にあるヴェシカ・ピスキス[中世キリスト教美術の先のとがった楕円形]の周囲には数式が書かれています。 77 + (7+7/7) + 77。
そこから私たちはババロンのゲマトリア数値である156を獲得します。
もっとも重要なことはクロウリーがBABALONという名前を3つに分割して解釈していたことです。BAB – AL – ONに3分割されたとき、それは「神オンの門」を意味します[BAB =門、AL=神、ON=オン]。
そう、ババロンのひとつの重要な解釈は「神オンの門」です。そして「オン」という言葉は、とある神の名前をあらわしています。クロウリーは『サメクの書』の脚注の中で「オン」のことを「秘中の秘 Arcanum of Arcana」と表現しています。
「銀の星の兄弟団の聖なる印章」は明らかに、バハロンの存在を強調しています。そして彼女のシンボルをその印章の核に据えました。
ここでA∴A∴、あるいはクロウリーがババロンの性質をどのように解釈していたかを考える必要があります。
彼女は『法の書』の中で「緋色の女」と呼ばれています。
彼女の性質は、1909年にアルジェリアの砂漠で行われたクロウリーの重要な『霊視と幻聴』のワークにおいて明白になりました。この類まれなる「幻視」の記録によって「聖杯の術式」が明らかとなり、ひとつの魔術システムとして進化したのです。
この「聖杯の術式」は、「ババロンの杯」という名で知られています。それは志願者の全生命を捧げることを意味しています。比喩的には、志願者の最後の一滴までその血のすべてを聖杯へと注げよ、と表現されます。
それは「大作業 Magnum Opus」への献身を意味します。
それは「大作業」の中でも、とくに「深淵を越える」試練と関連があるといわれています。 それゆえに志願者は、自分自身を「大作業」に捧げ、深淵を越えるのです。より秘教的な表現を用いると志願者はパンの夜の下、「ピラミッドの都市」(ビナー)において「神殿の首領」となるのです。
私たちがここで明確にすべきことは、ババロンは「生命の樹」の深淵の帳を越えた最初に位置にあるセフィラ ビナーと深い関係にあるということです。
ヘルメス・カバラで用いる女王の色階ではビナーの色は黒です。それはまた「夜」の色です。それは知られざる「理解」の理想的世界です。
それは知性による理解ではありません。それは直感的な理解です。それはまた霊智の聖域とも呼べる場所です。その沈黙の聖域は、A∴A∴の志願者たちの達成の聖域でもあります。
「銀の星の兄弟団の聖なる印章」の中心にある「ババロンの星」はその達成の証しでもあります。Jダニエル・ガンサーはこう指摘しています。ババロンとは深淵を越えた「神殿の首領」であり、「彼女」はA∴A∴の至高の第三団、「銀の星」の一員です。
私はO.T.O.のトレードマークの中に彼女を見出します。 この発言について、私は説明しなければならないでしょう。
O.T.O.のトレードマークは主に3つの秘教学的なシンボルの集合体です。
その3つのシンボルとは「三角形の中の眼」、「鳩」そして「杯」ないしは「聖杯」です。
そのデザインは19世紀後半のフランスのオカルト復興に由来しています。それは基本的にメイソン的なシンボルです。
「摂理の眼」あるいは「すべてを見通す神の眼」はオカルト、あるいはフリーメイソンリーのお馴染みのシンボルですが、その起源はキリスト教の図像(学)にあります。
この古典的なシンボルはA∴A∴においても同様に強調されています。
それは聖なる神性、あるいは偉大なる建築者の摂理の眼であり、深淵を越えた「神殿の首領」の見開かれた眼でもあります。
この覚醒は、ときに「シヴァ」あるいは「ホルス」の開眼ともよばれています。 O.T.O.のトレードマークはまた私たちの中核的儀式「グノーシスのミサ」、「聖なる婚礼 Hieros Gamos」、あるいは「真の薔薇十字術式」の象徴的表現でもあります。
「鳩」は父なるヨッドの炎をたずさえ、燃える聖杯へと降下していきます。それは外なる「自然」から人間へと向かう力を描いた科学的略図です。それは生殖力、または「創造」の真の力流を私たちにもたらします。その術式こそが「神は人なり、人は神なり」[O.T.O.のモットー]の術式です。
ヘブライ文字のアインは「眼」を意味します。
「鳩」は金星に帰属する鳥で、その意味において私たちは金星が対応するヘブライ文字ダレスを獲得します。
「鳩」は金星とセフィラ ネツァクに対応します。
「鳩」はヨッドの文字とともに聖杯へと下降していますが、その動きはまさに「生成」を示唆しています。実はそれこそが「グノーシスのミサ」「聖なる婚礼」の奇跡を表しています。
O.T.O.の伝統に従えば、「生成」が対応するヘブライ文字はヌンです。こうして私たちは、また別のヘブライ文字であるヌンを得ました。そして私たちが得た3文字を続けて綴ってみましょう。
アイン、ダレス、ヌン。その3文字が表す言葉はODN、すなわち「エデン」です。 3つのヘブライ文字が表す原初の楽園「エデン」はとても興味深い言葉です。
それは明らかに深淵の上にある聖域です。それはアインとヌンからなるON「オン」という言葉を含んでいます。
そしてダレスの意味を思い出してみましょう。 それは扉、塔門、そして「門」を意味します。 そう、私たちはここにもうひとつの「神ONの門」、ババロンと出会うのです! この解釈はA∴A∴とO.T.O.が織り成す「二重性」に関する重要な概念を示唆します。
そう、それはババロンに他なりません。
それは「大作業」における3つの試練の最後の試練を示唆します。
それは深淵の横断です。志願者はそうして「神殿の首領」として誕生するのです。
そして「深淵の首領」とは、すなわちババロンのことです。 私はここでふたつの結社のイニシエーションのプロセスについて少しだけ触れたいと思います。そのプロセスはA∴A∴においては「大いなる回帰の径」とよばれ、O.T.O.においては「永久の径」とよばれています。
まず最初にJダニエル・ガンサーが著書『天使と深淵』のなかで定義した「大いなる回帰の径」のプロセスからみていくことにしましょう。
その径は、私たちが現在いる世界から「虚無」ないしは「虚空」へと遡り、回帰していくプロセスを意味しています。
それは新しいホルスのアイオンの逆行術式OAIで表される、まさに帰還の径です。
ガンサーはそのプロセスをこう定義しました。
死 – 人生 – 誕生 – 妊娠 – 受胎 – 統一化 – 全化 – 無化
そのイニシエーションのプロセスは、儀式番号671として知られる『門の書』によってオシリスの死を祝祭することから開始されます。
それはA∴A∴のニオファイトのイニシエーションであり、彼はピラミッドの中で死を体験します。
志願者はつづくジェレイターの位階において儀式番号120としてしられる『死体の書』を体験します。その儀式の中で志願者は「己自身によって完全となるもの」アサール・ウン・ネフェルとなり地下世界を旅します。
志願者はこうして人生を旅したのちに深淵の中で自我を捨て去った無垢な赤子として誕生します。志願者は逆転の術式に則って聖なる母の子宮へと回帰します。
志願者はここで妊娠状態へと逆行します。志願者はそこ(ビナー)で「神殿の首領」となり、パンの下の夜にある「ピラミッドの都市」において「緋色の女」ババロンとなります。
それはまさに「逆行の神秘」です。
続いて、もうひとつの径であるO.T.O.の「永久の径」について考察してみましょう。それは「大地の人間」とよばれる3つ組みと関連した連続した6つのイニシエーションのことです。
それはO.T.O.における最初の6種類のイニシエーションであり、なおかつ「大作業」に関する総合的な全体サイクルの表現でもあります。換言すれば、それはイニシエーションの最初の旅となる一巡(サイクル)であり、「誕生」「人生」「死」そして「死を越えた」世界の体験です。
1. 自我は太陽系に惹きつけられる 0° ミネルヴァル
2. 子供は「誕生」を経験する I° 第一位階
3.「人」は「人生」を経験する II° 第二位階
4. 彼は「死」を体験する III° 第三位階
5. 彼は「死を越えた世界」を体験する IV° 第四位階
6. 周期全体は「消滅」へと引き戻される PI° 完全なる参入者
アレイスター・クロウリーは「大地の人間」より上の位階について、こう説明しています。
“「人生」に関連する「参入者たちの教え」を、例えほんの概略だけでも、たったひとつの儀式で描くことはまず不可能なので、「完全なる参入者」より上の全位階は「第二位階」の詳述、生き方についての過程的な指導となる。よって、「第五位階」から「第九位階」までの儀式や教えはつまり、「参入者」への「人生の熟練」の指導である。それは彼をして「人生の達人」とならしめるための「魔術的秘儀」の段階的授与となる。”
したがって6つのイニシエーションは「大地の人間」の3つ組みのなかでO.T.O.の全般的ヴィジョンを包括的に表現しています。そしてこの「永久の径」に含まれる最後の言葉に注意を払うべきです。 “ 周期全体は「消滅 Annihilation」へと引き戻される “ ここで私たちは「消滅」という言葉と出会います。
話を先に進める前に、私はダニエル・ガンサーの興味深い洞察を紹介しておきます。彼はA∴A∴の「大いなる回帰の径」を「夜の径」と呼んでいます。
一方、O.T.O.の「永久の径」のことを「日中の径」と呼んでいます。 ここでこのふたつを比較してみましょう。
O.T.O.: 「日中の径」、「自然界への参入」 外向的、魔術的、正位置 IAO
A∴A∴: 「夜の径」、「霊的世界への参入」 内向的、神秘的、逆位置 OAI
ふたつの結社はまさに相補的です。O.T.O.はソーシャルな形態をとり、共同体的であり、また宗教的な組織です。その中核には「グノーシス・カトリック教会」、略してE.G.C.と呼ばれる「教会」があります。
一方、A∴A∴は個人的であり、霊的です。そのメンバーは自分の直属の上司と生徒以外には、なんらの直接的コンタクトをもちません。
とはいえふたつの結社の儀式はときに強い類似性を示します。私は、とりわけ「薔薇十字の最高王子、ペリカンと鷲の騎士」とよばれるO.T.O.の第五位階の儀式とA∴A∴のジェレイター位階の儀式、儀式番号120「死体の書」との相関性に注目しています。 さて、お話しを「消滅」へと戻しましょう。
死を越えた「消滅」とはなんなのでしょうか?
クロウリーは意図的にその言葉を使ったのでしょうか? その疑問に対する答えの断片が『第71の書 沈黙の声』という本のなかにあります。
それはヘレナ・ペトロブナ・ブラバツキー夫人によって書かれたものですが、クロウリーはその本の解説を書いています。またクロウリーによれば、ブラバツキー夫人はA∴A∴の「神殿の首領」と同等の霊的発達段階にあったそうです。
クロウリーは彼の魔法名のひとつである兄弟O.M.の名前で『沈黙の声』の解説を書いています。 ここで『第71の書 沈黙の声』の『ふたつの柱』と題されたセクションから引用してみましょう。
“ 「秘密の道」はまた至上涅槃(Parinirvana)の至福へと導く。されど数知れぬ劫末(Kalpas)においてなり。幾多の涅槃は迷える人類世界に対する無限の同情と慈悲より得、また失われよう。”
この文章に対するクロウリーの解説を引用します。
“ これはまったく仏教徒の教義に反している。もし、「涅槃 Nirvana」の意味が「消滅 Annihilation」であり、「至上涅槃 Parinirvana」が「完全なる消滅 complete Annihilation」を意味するというのであれば、仏陀は確かに「至上涅槃」に到達していた。そして、そのふたつの涅槃を区別するためには私のものよりも、より形而上学的な解釈が要求されるだろう。”
クロウリーの仏教解釈はさておき、ここで着目すべき点は彼が「消滅 Annihilation」という言葉を意図的に「涅槃 Nirvana」の英訳として用いているということです。
ここで「永久の径」における「消滅」という言葉を「涅槃」に置換してみましょう。
“ 周期全体は「涅槃」へと引き戻される ”
ところで皆さんは涅槃という言葉をどのように定義されるでしょうか? 私はおおよそ下記のように定義しています。
“ ニルヴァーナとは、個々の存在の滅却、すべての欲望と情熱の消滅によって妄執を離れ、寂静のままにあることである。”
次にこの定義とクロウリーが『視界のひとつの星』のなかで記述している「イプシシマス」(A∴A∴の最高位階)の定義を比較してみましょう。
“イプシシマスは卓越した存在のすべての様式の「マスター」である。 つまり、彼の存在は内的、または外的な必要性から完全に解放されている。彼の仕事はそのような必要なものを組み立てる、ないしは取り消すためにすべての傾向を破壊することである。彼は「非実体の法」(アナッタ)の「マスター」である。 イプシシマスはいかなる「存在」とも関係性をもたない。彼は、その達成のために、いかなる方向に向けても意志を持たず、二元性と関連するいかなる「意識」も持たない。「言葉と愚者を凌駕せよ、汝、言葉と愚者を凌駕せよ」と書かれているがごとくに。”
また『第一の書 Bまたはマギの書』からも引用してみます。
“ そしてこれは「イプシシマスの位階」の「開始」であり、仏教徒にはネローダ・サマパッティの恍惚状態と称されるものなり。”
この「ネローダ・サマパッティ」という、あまり聞き覚えのない特殊用語の意味は「停止の実現」あるいは「知覚の終焉」です。 さらに『第一の書 Bまたはマギの書』は私たちにこう語りかけます。
“ 首領の位階は「悲しみの神秘」の教示であり、メイガスの位階は「変化の神秘」、そしてイプシシマスの位階は「無自己の神秘」の教示である。それはまた「牧神の神秘」とも呼ばれる。”
ネローダ・サマパッティ、無自己の神秘、牧神の神秘。
彼は自己もアートマンも所有していません。
その存在形態はただ「涅槃」であり、「消滅」です。そして「涅槃」は仏教徒たちの最終目標です。私はここでひとつの事実を強調したいと思います。
仏教徒と「大作業」の従事者たちのゴールはまったく同じです。
それは「涅槃 Nirvana」「消滅 Annihilation」そして「無化 Nulliversion」とよばれています。
仏陀に率いられていた原始仏教の僧団は深淵を渡ることのみに専心していました。僧団とはまさに仏陀とともにあり、彼の教えを信じ、その「ダルマ」(法)をまもる共同体です。
アレイスター・クロウリーは仏陀のことをA∴A∴のメイガスの位階に相当する人物であるとみなしていました。メイガスの主要な特性は、「創造的な魔術的言葉」を保持しているということです。
そして仏陀の言葉は「アナッタ」または「アナトマン」でした。その意味は「無-自己」「無-自我」そして「アートマンの不在」です。彼はまた「秘密の首領」であり、「銀の星」の成員であり、私たちの中核的儀式「グノーシスのミサ」においては「聖人」のひとりです。
仏陀の「四聖諦」は永久の真理です。 それらは「悲しみの存在 (苦諦)」「悲しみの原因としての欲望 (集諦)」「悲しみの死滅 (滅諦)」と「涅槃へといたる八つの正しき道 (道諦)」です。
そう、欲望の終焉にこそ悲しみの死滅があります。それは欲望の滅却にこそ涅槃への道が開けることを示唆しています。
しかしメイガスの言葉「アナッタ」はとても重要であると同時に誤解を生みやすい概念です。ここでは原始(初期)仏教の観点から、ふたつの解釈を提示してみましょう。
- 対象そのものを「わがもの」として捉えてはならない
- 自身の中に中心的で絶対的な自己がいると錯覚してはならない
対象を所有したいという欲望と意識から悲み(苦)が到来し、それを獲得できなかったとき、人は苦しみます。
私たちはそこから自由にならなければなりません。そして私たちは絶対的な宇宙神というものを決して人格化してはなりません。「アナッタ」の意味はまた「アートマンにあらず」でもあります。
兄弟エイカド、チャールズ・スタンズフェルド・ジョーンズによって発見された『法の書』の鍵を想起すべきときです。
それは「神」を意味するALと「否(ノット)」を意味するLAがともに31という数値を持つという事実です。 「神(ゴッド)」 = 31 = 「否(ノット)」。
これは「神の秘密」です。
いかにも、私たちは魔術においてエジプトやほかのさまざまな神のイメージを使います。しかし、それらは実際のところ私たちの意識のさまざまな局面を表しています。
私たちは、儀式魔術などにおいて、しばしば外向する精神の多様性を利用します。それに反して、ヨガの瞑想のような内向的な作業では、そういったイメージを排除し、「無」や「空」へと向かおうとします。
思い出して下さい。イプシシマスとは「アナッタ」、非-自己の法の「マスター」です。 最古の経典である『スッタニパータ』をみるとき、私たちはこの有限な世界で生きながらにして涅槃に到達する、という表現を眼にします。
それは生きながらにして、深淵を横断する人のことです。
A∴A∴における「大作業」のように、それは原始仏教のなかにおいても支持されています。欲望と悲しみのメカニズム、そして仏陀が分解し、解析した教えは2500年が経過した現在でも大きな意味を持ち続けています。
生きながらにして自己という炎を消し去り、涅槃にはいるという行為は原始仏教によって、大いに肯定されています。
私は、アレイスター・クロウリーの「神殿の首領」の魔法名を思い出します。それは「Vi Veri Vniversum Vivus Vci」であり、その頭文字は V.V.V.V.V.です。またその意味は「真実の力によって、私は生きながらにして宇宙を征服せん」です。「生きながらにして」という言葉は志願者たちにとって、特殊な意味合いをもちます。
ところで、この講義の冒頭でお話しした神秘的ななにかは、私がつねに追求し続けているものです。それは「真の自己」の経験だったのでしょうか?
あるいは「神」の? あるいは「虚無」の? あるいはたんなる白昼夢だったのでしょうか? あるいはなんらか「聖なる」何かだったのでしょうか? 結局のところ、私には何もわかりません。私は自分が経験を説明することなどできないのです。
面白いことにカバラの数値変換(ゲマトリア)システムでは「私」「私自身」そして「最初の人間」を意味する「アニ」という言葉と絶対者の最初の否定の帳、宇宙の始まり以前を表す「アイン」は同じ61という数価をもちます。
61という数値は5の二乗と6の二乗を足し合わせた数値です。
それは五芒星(小宇宙)と六芒星(大宇宙)の総和を表すという意味で魔術ではとても重要な数字です。
『法の書』における鍵は「神(ゴッド)」は31という数値によって「否(ノット)」と等価になるというものでした。そして「私自身」である「アニ」もまた61という数値によって「アイン」たる「無」または「否」と等価になりました。
仏陀の教えである「アナッタ」の意味は「非-自己」です。 それらのコンセプトは存在の究極の性質を示唆しています。それは私たちは、本当は決して存在などしていないということです。それは自我という炎の完全なる消火です。
それは「涅槃」であり「消滅」です。それは「大作業」のゴールである「無化」です。
O.T.O.においてそのプロセスは、セレマ的なフリーメイソンリーの象徴と寓意に立脚した一連の参入儀式によって表現されます。
それは「永久の径」と名づけられた「誕生」から「深淵踏破」までの象徴的旅路です。
一方、A∴A∴の「径」はよりダイレクトな「径」です。
彼らは「大いなる回帰の径」とよばれる長く険しい「径」にダイレクトに踏み出します。
より重要なことは、ふたつの結社のゴールは同じだということです。私たちはネモとして楽園エデンに回帰するのです。そして「神殿の首領」の別名であるラテン語の「ネモ NEMO」の意味は「だれもいない」です。
深淵を越えたビナーの領域、別名「ピラミッドの都市」には「私」や「私自身」といったような個は存在しないのです。ビナーの意味は「理解」で、そこは「パンの夜」の下にある知られざる「発話のなかの沈黙」の領域なのです。
ここまでに私は「涅槃」と「消滅」について語ってきました。
そしてそれらふたつの言葉の意味は結局同じであることを述べました。
その意味は「非-自己 No Self」です。
では私の講義のタイトルにある「三角形の中の眼への回帰」とはどういう意味なのでしょうか?
まず、私たちにとってもっとも重要なソースである「A級刊行物」、『セレマの聖なる書物』のひとつをみてみましょう。
“ 汝は「眼」と「歯」、「精霊の山羊」、「創造の主」である私を崇める。私は汝が崇めし「三角形の中の眼」、「銀の星」である。”
『第370の書 アアシまたは精霊の山羊の書』18節
まずこの文章の意味を考えてみましょう。
ヘブライ文字の「アイン」[無を表すAinではなく、Ayin]の意味は「眼」です。私はこの文字をO.T.O.のトレードマークを分析する際に言及しました。
そしてヘブライ語で「歯」を意味する文字は「シン」です このふたつの文字を続けて書くと「アアシ」という言葉になります。
この聖なる書物のタイトルにもなっている言葉です。さらにアインは70、シンは300という数価をもっています。ふたつの文字を足すと、それは370になります。
この数字がこの本特有の数字になっていて、したがって重要な意味をもっています。ここで万物照応を用いて、ふたつの文字の占星学的属性について考えましょう。
アインには磨羯宮が対応し、シンには第五元素である「精霊(スピリット)」が対応します。そして私たちは「精霊の山羊」という言葉を得ます。さて「アアシ」のヘブライ語の意味は「創造」です。そして「アアシ」は自らを「創造の主」だと宣言しているのです。「アアシ」はまた、私は「三角形の中の眼」であり、「銀の星」だと言っています。
そう「アアシ」たる「創造の主」は同時に「三角形の中の眼」でもあり、「銀の星」でもあるというのです。ここでA∴A∴のオフィシャル・サイトから引用しましょう。
“「団」は、V.V.V.V.V.から、熟練した存命の達人を通して、不断の「鎖」によって継続されている。「団」は「ひとつ」であるが、その機能は、「沈黙の内にある発話」「沈黙」「発話の内にある沈黙」という3つの様式から成る。「団」は、一なる「三角形の中の眼」として「ひとつ」である。”
http://www.outercol.org/
「銀の星」とはじつのところA∴A∴の第三団、最上級の学舎の名前です。そのラテン語は「Argenteum Astrum」であり、頭文字をとってA∴A∴とよばれます。
厳密にいうと「銀の星」は、深淵を越えたもっとも高い位置にある首領たちの学舎の名称です。その領域は、通常、「至高」あるいはカバラでは「至高の三角形」とよばれています。それはケテル、コクマー、ビナーの3つのセフィロトから構成されています。
ここで心に留めておかなければならないことがあります。
深淵を越えたこの最上位の世界、3つのセフィロトによって構成されるこの世界においては、なにものをも分割することができず、その存在は3によって形成される1であるということです。
それは、もしあなたが理想世界と現実世界を分断する深淵を越えたならば、私たちの通常の知覚や思考は機能しなくなることを意味しています。
Jダニエル・ガンサーは「深淵を越える」ことについて重要なことを書いています。
“それは、自我によって濾過された直線的思考や本能的反応というプロセスを経て分化されてしまった意識の状態から、自我的、あるいは本能的な区別を免れた「普遍的生命」たる統一、ないしは無化された意識への横断である。"
『天使と深淵』第六章
2011年、東京で一連の講義を行ったダイエル・ガンサーに対して、私は次のような質問をしました。「V.V.V.V.V.とアレイスター・クロウリーの聖守護天使アイワスは別々の存在なのでしょうか?」
彼の回答はこうでした。「深淵を越えた世界において存在を区別することはできない」。そう、彼らは深淵を越えた世界においては、ひとつであり、無なのです。
「三角形の中の眼」は、まるで禅の公案のような謎々を私たちになげかけます。
なぜならば、私たちの知覚は二元論という常識に縛られ、私たちは主にふたつの対象の「差異」によってしか、なにものも認識できないからです。 私は即座に『法の書』の下記の言葉を思い浮かべます。
“ かくして今、汝らにはヌイトという名前で知られ、彼には、終にわれを知りたる時に授ける秘密の名前によって知られるなり。われは無限の宇宙、そして無限の星々であるが故、汝らもまた、かくの如き行え。何者をも束縛するなかれ!おまえ達の間で、如何なる二者にも差異を作らせるべからず。何故ならば、それによって苦痛が生じるからである。” 『法の書』第一章 22節
さまざまな局面をもつなんらかの集合体としての対象を観察するのではなく、むしろ直感によるダイレクトな体験によって真実は理解されます。
それは真のグノーシスの視点です。それはまた「天使」の「眼」です。 アレイスター・クロウリーは『真理に対する小論集』という素晴らしい本の中で心の「無関心」を推奨しています。
“ ひとつには、いかなる欲望の形態にも拘束されていない心の習慣を養う必要がある。「無関心の状態」は、このように防衛と保護としての沈黙の一形態であり、さらに仏教の「3つめの崇高なる真理」である「悲しみの死滅」と同義である。”
“ したがって「無関心」は達人の「自動意識」の霊的な形態である。『第418書』の11番目のアエティールに記されているように、それは「深淵の境界たる大要塞」がある場所、イェソドに存在する。”
“ したがって「無関心」の獲得の方法(「達成」という言葉が適切な場合もある)は単純だ。それは実際、「タオの道」である。”
“ 以下の論理学の連鎖式は、志願者にとって有用であることが証明されるだろう。「存在」とはただ「連続体」として理解される。 「存在」のあらゆる部分は、したがって最終的に等しく、全体を形成するために等しく必要である。
したがって、それぞれのイベントは、等しい敬意、および反応によって受け入れられ、等しい無関心によって形成される必要がある。”
“ この「無関心」を獲得する方法は、「悲しみの恍惚状態」のいかなる体験とも完全に独立しているという点で興味深い。それは厳密なセレマ的前提を基礎とした単純、かつ標準的な考慮の結果である。それは極めて推奨されるべきことだ。”
『真理に対する小論集』「無関心」
さて、あなたのこれまでの習慣的な思考法を捨て、沈黙、あるいはグノーシスの視点で次なる言葉に耳を傾けてみて下さい。
“縛り付けられ、嫌悪を振りまきたる、多くのものとなり,形の状態はそのままにさせておけ。汝の一切に関しても。汝は自らの意志を行う他には権利を持たぬ。
それを行え。されば何者も拒絶する事はないであろう。
決意の減退する事なく、結果ばかりを求める抑え難き欲望より解放された純粋なる意志とは、あらゆる点において完全であるゆえに。
その完全とその完全によってひとつの完全になるのであり、ふたつになるのではない。否、無となるのだ!”
『法の書』第一章 42-45節
さて「三角形の中の眼への回帰」とはなにを意味するのでしょうか?
それは理性、知性と知識を越えた非-直線的思考、直感とグノーシスの世界への回帰を意味します。
志願者は「知識」を意味する深淵上の偽のセフィラ「ダース(知識)」そのものを越えていくのです。そしてすべての志願者は深淵を越えていく際に自我を持たない純粋無垢な「赤子」になるのです。クロウリーはこの特殊な位階のことを「深淵の赤子」とよんでいました。そうして彼らは「神殿の首領」またはババロンとして第三団の成員となるのです。
より正確にいうと、実は深淵下で機能する「三角形の中の眼」というものもあります。それは「眼」が右眼なのか左眼なのか、あるいはその他の要素に依存して決まります。
しかし、私が今日ここで皆さんにお話ししている「三角形の中の眼」は深淵の上を表すシンボルです。それはまた「銀の星」そのものです。
「涅槃」「消滅」「三角形の中の回帰」はすべからく同一の現象を表しています。それは「非-自己」ないしは「誰もいない」を意味する「ネモ NEMO」です。
ここで仏陀の「径」について少しだけお話ししましょう。彼は私たちの「メイガス」のひとりであり、「グノーシス・カトリック教会」の聖人です。
彼の方法論は、欲望や痛みや苦悩といった人間をがんじがらめにする負の連鎖の原因に対する過激な自己分析といえるでしょう。
それゆえに仏陀は「存在の悲しみ」に関して「アナッタ」すなわち「自己」や「自我」の本質的不在を強調するのです。
しかし仏陀は彼の「径」の術式を緻密に画一化しませんでした。なぜならば仏陀は真理へと導くことにかんして、直線的思考や言語の無益さを熟知していたからです。
アレイスター・クロウリーもまたこのことをよく理解していました。彼は『第333の書 虚言の書』のタイトルページに対する解説にこう書き記しています。
“ 本書に付与された番号333は「断絶」や「虚言」に対応し、分散を意味する。「ひとつの思考それ自体は虚偽」であるがゆえに、その偽証は相対的に真実である。したがって本書は、人間の言語を用いた真実に近しい声明により構成されている。”
確かに333は深淵に棲む邪悪な悪魔コロンゾンの数字です。
コロンゾンは「知識」を表象します。彼は「形象のマスター」であり、その性質は拡散、分裂、破壊です。
ヘブライ語で「知識」を意味する深淵上のセフィラ「ダース」は、偽りのセフィラであり、それは「虚偽の王冠」あるいは「人的知性の王冠」とよばれています。それは二元性の二律背反と言語がもつ矛盾に依拠しています。
そう、コロンゾンは「真理」ではありません。なぜならば「真理」は直線的思考や言葉では決して説明できないからです。
その理由からクロウリーは『虚言の書』にコロンゾンの数値を付与したのです。またコロンゾンはクロウリーにとってのマーラ[仏陀を誘惑した悪魔]でした。
初期の仏教で成立したとされる「四聖諦」[4つの聖なる真理]や八正道、十二支縁起などの理論的側面は、仏陀の死後に、より詳細化され定義されたことをあなたはご存じかもしれません。
それらはシンプルで合理的な教義であると思われますが、仏陀の「法」そのものはよりインスピレーショナルで細かなマニュアルなどによって整備されていたわけではありません。
私は仏陀の「解放の径」はシンプルだと思っています。彼は弟子たちに、ただ深淵を越えよ! とだけ教えていたのですから。そして彼らは労働を放棄し、ただ座り、真理を追究しました。
私たちの高潔なる「径」は『法の書』に記された「存在とは純粋なる喜びである」という言葉によって理解されます。
それは私たちの「解放の径」です。 私たちは生きるために労働にいそしみます。私たちはおもに都市部に住んでいます。
私たちは税金を支払い国家の法律を遵守します。それでも私たちは、私たちの声明である『オズの書』に記された自由への鍵を確信します。
「人間以外に神はなし」と。
私たちは「大作業」を達成するための「径」を知っています。
そのゴールは「神との合一」です。その意味はサンサーラの輪を切ることです。
それは「ネモ」、「銀の星」の第三団の「神殿の首領」は、決して人間として生まれ変わることはないということを意味しています。 決して!
「涅槃」「消滅」「三角形の中の回帰」に関して知り、理解する。それは私たちの「真の意志」です。それは私たちのDNAに刷り込まれています。
“縛り付けられ、嫌悪を振りまきたる、多くのものとなり,形の状態はそのままにさせておけ。汝の一切に関しても。汝は自らの意志を行う他には権利を持たぬ。それを行え。されば何者も拒絶する事はないであろう。
決意の減退する事なく、結果ばかりを求める抑え難き欲望より解放された純粋なる意志とは、あらゆる点において完全であるゆえに。
その完全とその完全によってひとつの完全になるのであり、ふたつになるのではない。否、無となるのだ!”
『法の書』第一章 42-45節
それは私たちの知られざる「偉大なる秘密の首領」からのメッセージです。
さて,ここで混乱しないで下さい。深淵を越え、無化された「なにものでもない存在」――それを私たちの霊的伝統に則って仮に聖守護天使と呼ぶことにしましょう。
天使は言葉を超越し、寂静のままにあります。
天使の存在を正確に述べることは誰にとっても不可能なことです。
にもかかわらず、なぜ天使は魔術師に「言葉」を伝えるのでしょうか?
その答えはすでに『セレマの聖なる書物』のなかに見出すことができます。
そう遠くない日に、私はあなたと真摯にその課題について語り合いたいと思っています。
愛は法なり、意志の下の愛こそが。