Living Qabalah

HierosPhoenix2007-01-22

Do what thou wilt shall be the whole of the Law.

クロウリーは魔術マニアなら誰でも知っているように熱心なカバラの研究者でした。クロウリーは魔術の学習を開始した初期の段階からQabalahの熱心な信奉者であり、彼の数多ある著作には、Qabalahの知識が散りばめられています。彼はQabalahと易を同等視し、そのフレームワークを自己の思考と実践の基盤としたことは明らかです。また実践としてのスクライニング、星幽旅行、諸界への上昇、儀式による召喚と喚起は、その理論的背景となるQabalahの理論と強力に結びついている「実践Qabalah」と呼ばれる技術群です。クロウリーは『法の書』に散りばめられた幾つかの意味不明な言葉、文脈、整合性を理解・検証するためにゲマトリアをフルに活用しています。

_Magick Without Tears_の第4章(The Qabalah,The Best Training for Memory)の中で"君のQabalahは私のQabalahにあらず、私のQabalahは君のQabalahにあらず"という思想の下、「君は君自身のQabalahを打ち立てよ!」と述べています。

・「ギリシャとヘブル、ほとんどアラビア的なQabalah, それらは『法の書』の
 著者(Aiwass)によって使用されている」 
・「数字は宇宙構造のネットワークであり、その関連は私達の理解の発現
 を形成する」
・「それ(生命の樹)を後方から、前方から、側面から、そして引っくり返して
 知るべし。そして君の全ての思考の自動的なバックグラウンドとなるようにせよ」
                  いずれも_Magick Without Tears_より

Qabalahは18世紀中頃に登場した綴り方で、ユダヤキリスト教神秘主義の秘教的要素と実践的な知識をバックグラウンドとし、ヘルメス的技法を包括的に理解・実践するための西洋秘教伝統の中核を成す体系です。Kabbalah( ユダヤ教神秘主義 )やCabala( ルネッサンス期に代表されるクリスチャン・カバリズム )とは異なり、Qabalahは特定の宗教に拘束された「宗教的なカバラ」とは云えません。それ故にQabalahには中軸となる「神」は存在せず、単なるフレームワークに堕してしまったようにも思えます。しかし、Qabalahの基本概念は特定の神への信仰に集中的に帰依するのではなく、総称的な神を同等に扱うニュートラルな宗教、信仰を容認するという姿勢に立ち、その基盤となる宇宙論と照応法を提供しています。

他方、現代はQabalahの著作で溢れている時代です。更に混沌魔術の潮流は、使い古され、枯渇したQabalahのフレームワークを嘲笑するかのように自分独自の象徴体系を、独自のフレームワークに従い構築するよう勧めています。とはいえ、例えばピート・キャロルの「欲望のアルファベット」が比較的伝統的なシンボリズムに触発され、そこに独自の欲望の輪の概念を導入しカテゴライズされていることはよく知られています。彼は冒頭のクロウリーの言葉、「君は君自身のQabalahを打ち立よ!」を実践した魔術師の一人とも云えます。『無の書』に記載された図11を"これを私のカバラとする"とコメントしていることは、とても興味深いことです。

Qabalahの必要性はThelemitesにとっても議論の余地はありません。ただし、単なる読書による学習には限界があります。いずれにしても、多くの実践的経験値を持つ魔術師ほど理論的なQabalahを有効に活用できることは疑う余地もない事実です。
理論と実践の間の溝を埋める行動が「力」を発現する際の鍵となります。つまり、実践の際に太陽の大天使を召喚する「力」は、魔術師のプシュケから発現する太陽存在=ティファレトの理解度と、固着した太陽的概念のクラスターの勢いに左右されます。その背景にはティファレト理論への連続した瞑想作業と理解が必須です。「力」は「恍惚」と置換可能で、諸力の相関関係を図式化したものがQabalahの生命の樹なのです。象徴を肉体化する為には、実践的なアプローチは必須で、従って包括的なフレームワークは実践を通してのみ効果の発現が期待されます。

Qabalahを死せるままに留め置くか、生きたものにするかは魔術師次第です。この概念が底流にある以上、決してQabalistic Magickが色褪せることはないでしょう。ただし成長する樹とともにある21世紀のQabalahは、よりバリエーションに富んだものとなる筈です。

Love is the law, love under will.