Voice

Do what thou wilt shall be the whole of the Law.

汎歴2013年が幕を開けました。第五次元にアセンションできなかったことは多少残念ではありますが、また一つ価値のない安易な都市伝説が闇に葬り去られたことは喜ばしいことです。2012年に新たにOTOに参入を果たした皆さん、あるいは<大地の男>と呼ばれるOTOの初期の6位階のいずれかへの位階への昇進を果たした皆様にまずは祝福を。

OTOはに関心を抱く多くの志願者に情報と指導、友好と機会を提供し、これを助けることを活動の根幹に置いています。Great Work、<大いなる技>は、アレイスター・クロウリーが述べるように、遥か彼方にあるものではなく、今ここからすぐに始めることのできる魂の変成作業です。この作業は、勿論簡単なものではなく、長い年月と膨大な献身が要求される人生の一大事業です。多くの新しい志願者達は、この大作業に対して大いにたじろぎ、入場の門を畏怖しています。つまりそれはこの大作業を明確に定義できず、いつまでもこの門への入場を躊躇っていることを意味します。OTOのカリキュラムは、個々の志願者の人生の中に見出されます。従って共通した画一的なカリキュラムはOTOの中には存在せず、個々の人生のバリエーションの数だけそのカリキュラムも多彩を極めることになります。OTOは公的には魔術の教育団体ではありません。従って、OTO魔術師がOTOを通じて、如何にして魔術を学んでいくか?というテーマについては個々に委ねられた固有の問題となります。OTOの参入者としてのカリキュラムは、参入者が自分自身で構築することになるのです。この点において、参入者には各人各様の様々なカリキュラムが存在し得ると同時に、それは参入者個々の<人生>のパターンに準拠し、またそのそれぞれが尊重されています。

 クロウリーのもう一つの魔術団体「銀の星」団(A∴A∴)は明確に個の霊的発達を目的とした訓練の場であり、定められたカリキュラムのもと徹底した学習意欲とテストに合格するための理論・実践の蓄積が求められます。「銀の星」団には、ロッジや集団儀礼という概念は存在せず、公的には一人の学習者が知りえる他の団のメンバーは魔法日記を提出する直属の指導者一名のみです。或いは彼が1=10 Neophyte以上のイニシエートであった場合は、直接彼の指導下にある団員が既知となります。「銀の星」団とは明確に異なり、OTOはセレマの法を受け入れたThelemiteが集い、共同での活動を推進する同胞団(Outer Thelemic Order)という位置付けとなります。 「銀の星」団における<大いなる技>は、OTOの<大地の男>の位階における「大いなる回帰への径」をより具体的に体現するものであると定義できるかもしれません。第一に「銀の星」団は、教育団体でもあり、また厳格な試験団体(Testing Order)でもあります。「銀の星」団における「大いなる技」の三段階は”聖守護天使の幻視”⇒”聖守護天使の知識と会話”⇒”深淵の試練”であり、それぞれが「銀の星」団の「外陣」(Outer College)、「内陣」(Inner College)、「第三団」(Third Order)に対応しています。そして、それらの体験は寓意や象徴による秘儀参入で、連続的に体験されるものではありません。「銀の星」団では象徴的な体験を超越して、実際に試練そのものを克服し、「達成」することが求められるのです。

<大いなる技>へと挑むこと。それは日々魔術を学習し、且つ実践することを意味するものではありません。それは自分が選択した回帰の径を上昇し、段階的な変成が達成されることを自らの意志によって真に望み、行動することです。しかもこの挑戦は、魔術の径に踏み込んだ比較的初期の段階で明確に宣言することが重要です。3年後でも5年後でも10年後でも遅過ぎるのです。何故でしょう? <大いなる技>への挑戦を明言せず、それを将来の曖昧な課題として温存する人は結局、何も得ることが出来ないからです。日々の瞑想や儀式やヨガを趣味として楽しみ、娯楽として魔術を研究することを私は絶対に否定しません。しかし恣意的で気まぐれなトレーニングは、たとえ10年やっても成果が上がらないのも事実です。<大いなる技>への挑戦は、決して大それた未来の為のイベントではありません。今ここから始まる決意と行動によってそのスタートを切ることが出来ます。

1996年.今から17年前になります。当時私はI∴O∴S∴のプラクティカス 3=8の位階にあり、その位階の中で学習すべき「黄金の夜明け」団の一文書、『一般的指導及び魂の浄化に関して』についての瞑想と考察を続けていました。その前年にはOTOへの参入を果たしましたが、まだOTOに参加して一年にも満たない駆け出しのメンバーでしかありませんでした。『一般的指導及び魂の浄化に関して』は、クロウリーがほぼ原形を留めたままA∴A∴に取り入れた数少ない魔術文書の一つです。それはA∴A∴では『均衡の書』と改題され、1909年発行の『春秋分点』誌の第一巻第一号に収録されました。そしてその短い文書はOTOにおいても重要な位置を占めていることを、私は後に知ることになったのです。

私は、1996年にその考察を魔術日記から編集し、一冊の冊子にしようと試みていました。しかし、実際は、それは当時私が編集発行していたI∴O∴S∴の関西拠点、ウルト=ヘカウ・ロッジの機関誌『Seekers of the Light』の第8号に収録されました。この小論は『Voice』と名付けられました。以下にその昔の小論を公開します。17年も前の文章であり、また稚拙で退屈な読み物ですが、恥を忍んでここに公開するのは、魔術訓練の比較的初期の段階で<大いなる技>への挑戦を表明することの一例を皆さんに紹介するためです。『一般的指導及び魂の浄化に関して』は、光の径を模索する魔術師の為の倫理の書でもありますが、同時に<大いなる技>へと挑む為の基本姿勢と<均衡>の美徳を解説した優れた文書です。17年前に発表した際には、「黄金の夜明け」団の『一般的指導及び魂の浄化に関して』を引用していましたが、以下では便宜を図り、A∴A∴の『均衡の書』に差し替えてあります。とはいえ、クロウリーが変更した部分はごく僅かです。『Voice』の中で、私は時折、クロウリーとThelemaについても言及していますが、当時の私の理解は浅く、またOTOの魔術師としての経験はほぼ皆無でした。今回の投稿は、日記として発表するにはあまりに冗長なものなので、小分けして読むことをお薦めします。

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Voice
Frater DVMIH∴LXV∴

我々が常日頃、日常と捉える「有限」の世界は、緻密ではあるが、限界的な物質の理論に支配されている。精神とは極めて捉え難く、多様性に富み、変化し易いものであるが故に、物質社会の束縛と強制に時として傷つき、そこからの逃避を求めるようになる。我々の眼前に存在するものは「限界」と「束縛」なのであろうか? しかしそこには憔悴のみが待ち受けているわけではない。
私自身が価値ある神秘体系を包含した西洋の高等魔術体系に邂逅したのは89年の春頃であったと記憶している。初めに、それは閉ざされた無意識の中の未だ表現されざる欲求を汲み取り現前させる恐ろしくも眩惑的な体系に思えた。私はまるで何も知らなかった。魔術と超能力と予言の区別もつかず、歴代の偉大なる魔術師達、クロウリーやマサースの伝説に夢中になった。私は途端に優越感を覚えた。「社会の多くの者は無知である。私は偉大なるカバラと儀式の魔術について研究しており、見えざる世界、アストラルの仕組みについて学んでいる」。しかし、幸運なことに私は真に無知なのは自分自身であることに気付くことが出来た。この当時、私自身の身に極めて印象的な神秘体験が起こった。「天空への階段」と題された私のエッセイは、その体験を書いたものであるので、ここで引用しよう。

 “目が覚めると満点の星の下、溢れんばかりの光のシャワーを浴びている自分がいた。夜空を埋め尽くす星々は、まるで生き物のように、冷たく、心地好い<雫>を降らしている。存在に於ける上下左右の存在、高さと深さの感覚もそこにはなく、ただ広大なる一者の、他を包み込む<無限空間>があった。少し身体を起こし、周囲を見渡すと中空に浮かび、空間に捉えられている自分がいた。遥か前方に、山々と街のネオンサインとライトが美しく脈動していた。その時、山々の上空を煌めく尾を靡かせ落下していく流星が私の瞳に映った。あまりに美しく、幻惑的な世界であった。時の流れも、空間の制限も、そこには全く存在していなかった。全ての美と憧憬の奔流が交錯し、あまりのエクスタシーに私は実際に目を覚ました。”

私の神秘体験は、うたた寝の中の壮大なるヴィジョンとして顕在化した。しかし、単なる夢ではないか? と一蹴してしまうわけにはいかない程の究極の美に邂逅してしまった私は、生まれて始めての詩を自身の天空のために綴り、捧げた。

“天空の帳  夜半の流星  彩は無
暗くとも輝き  華やかでも虚ろな  天空の巨大な鏡よ
虚空の女神  喜びの雫  彼方の風
美しき毛髪  幻惑の篝火よ  全ての中の無限なる一者よ”

エクスタシーの中では絶対なる現実であった「無限」は、ほんの一瞬だけ「有限」を破壊し、私に限界の向こう側を垣間見せてくれた。以後、私が魔術の修業に没頭する原動力となった体験こそがこれであると断言することが出来る。

91年になって、私は魔術の学院への入会を許可された。孤独な修業は、時に自己をも欺く。私は信頼できる師の出現に嬉々とした。私は魔術の実践に熱中し、順調に位階のカリキュラムをこなしていった。多くの知識を得るためと自分自身の欲求に従い大量の本を読み、海外からも魔術の専門書を何百冊と取り寄せた。私にとってのそれは趣味を越えたものであったが、同時に楽しみながら学んでこそ意味がある、という事実にも気付き始めていた。
魔術の学院において、私は実に多くのことを学んだ。カバラ講義、「中央の柱」、パスワーキング、聖別の儀式、集団に於ける儀式魔術 etc. それらの一つ一つと師のアドバイス、導きが存在しなければ今の私はなかった。しかし、多くの知識や専門的な魔術のテクニックを学ぶことよりももっと大切なことがあると私は気付いた。勿論、そのことは私の師が力説していたことでもあったのだが、それは魔術師たるもの決して現実(アッシャーでの修業)を軽視してはならないということであった。我々は魔術師である以前に一人の社会人であり、魔術師としての自由な活動も基礎としての社会生活があって始めて意味を成す。我々は神のヴィジョンに酩酊し、祝福を受けたからといって、次の日に人間から脱却してしまうことはない。私は「無限」と「有限」の狭間に立ち、そのいずれもが同等に価値あるものであることを理解した。

商業的な物質社会は、確かに無限の危険性と隣り合わせにある。核の脅威、絶え間ない環境破壊、人間性の腐敗とエスカレートする残虐な犯罪。我々に分別と選択する知恵がある以上、我々は流されることのないよう、自らの真の意志を発見し、それに従うよう努力せねばならない。『Voice』の本編をお読みになる読者諸氏に、この小論の成り立ちについて少しご説明したい。『Voice』は、私自身の実践の記録を母体とした「魔術的な人間論」である。勿論、私は他人に何かを教示できる程の経験と見識は持ち合せていない。読者には次のように本小論を読み進めるようお薦めしたい。ここに凡庸なる一人の魔術師が書いたエッセイがある。人が十人いけば十種類の見解と解釈があるように、私の書いた意見は正当なものでも公平なものでもない。ゆえに読者諸氏には私と意見を異にしたり、誤謬を指摘することによって、本小論と格闘していただきたい。私自身、この小論を読み直す度に異を唱えたくなる。『Voice』とは私自身の無意識の声に他ならないが、私自身は自分の客観性を失わないためにも、この声に全幅の信頼を置くようなことはしたくないと考えている。ともあれ、私は人間存在と魂の可能性に興味を抱いている。静かに眼を閉じ、己と対話することに興味を覚える魂の航海者達に対して本小論が、ちょっぴり刺激になってくれることを望む次第である。

I

堕落に一面の真理もなくば、それは存在し得ない。<楽園追放>の引き金となった蛇の誘惑は、原初の至福と調和を破壊し、秩序は揺るぎない確定性を失った。誘惑者<ナカシュ = 蛇>は「試す者」であったが、その言葉は人間の可能性と潜在性に訴えかけるものであった。人間は、肉体の束縛という名の苦悩の中で、再生へと向かう道を余儀なくされたのだ。均衡崩壊により覚醒した<赤竜>は、四川を毒で汚し、下位の7セフィロトの領域を占領した。マルクトは<殻の世界>と結び付き、エデンの園は崩壊し、アッシャーと神性との間には明確な断絶と分断が確立した。我々は死の十字架に拘束された志願者たる人間である。また、我々は自らの自由な意志を勝ち得た生命の肯定者である。蛇の誘惑は。原初の人間の意識に侵入し、「変化」を引き起こした。この声もまた神の声ではなかったか…?

Voice
“進化という言葉は微睡の中にはない。主の御手の中にありても激烈なるもの---その意志は容赦なく下る。一つの形態に固執するのではなく、全体の流れを凝視せよ。何故ならば、存在は他との比較の内にその真の意味を顕すやもしれないからだ。至福と平穏を破壊するものは何か? 進化の意味するものは何か?”

ナカシュ(NChSh)はメシア---救世主と同じ数価を持ち、本来、何ら邪悪な存在ではない。むしろナカシュの存在なくば、我々は永久に無知であり続けたであろう。<蛇>たるアポフィスは破壊者にして、変換者である。ゆえに<蛇>は、第一物質を黄金へと変成させる、かの<黒き竜>なのである。

Voice
“ナカシュの誘惑なくば、人は永久に自らの創造原理を見出すことが出来なかったであろう。試練はすべからく達成のためにある。臆することなく死の十字架へと進み、自らを捧げよ。竜の毒は全てを闇に染める。人は主が為したように「光りあれ!」と声を発するだろう。それは、決して主を侮辱する行為ではない。主の望みは、人をして神の光輝を纏わせることにあるのだから。”

闇も物質も、<殻の王国 = クリフォト>ですら、決して悪ではないのだ。我々は神の存在を敬いつつも、自らの闇へと挑むのである。我々は受肉したる第四のアダムであるが故に、自らの闇を修正する者でもある。闇とは、我々の知るところの「暗がり」ではなく、光も我々の知るところの単なる「明かり」ではない。光も闇も充満し、無へと回帰する。我々は死を想定し、死を瞑想することによって、もう一つの誕生と覚醒を体験する。我々が、活動する小宇宙である限りは、行動を通して自らの存在を問わねばならないのだ。魔術師とは、自我の存在の上に立つ「神の分霊」や「神の意志」と呼ばれている人間存在の中でも最も神聖なる光の存在を肯定する者である。アレイスター・クロウリーのセレマ主義に於いては、「全ての男女は星である」、「さすればクハブスを崇拝し」等といった言葉により表現されているが、彼の魔術体系及び哲学体系ほどポジティブな生命への熱望を提供してくれるものはない。

それでも、我々は言葉の限界を知ることになる。我々の多くは魔術的隠遁生活を送るような立場にはなく、日々の苦悩と疲労の中に生きている。我々は、幼少の頃より多くの人々に対して憎悪の念を抱いてきたことについて、また多くの人々に対して、友好と愛情の念を抱いてきたことについて良く知っている。人間は、人間を支配し、人々の羨望の的になりたいという願望を少なからず抱いている。我々は自我を無視するということは不可能であるという事実を知っているし、高等魔術の理想の根底にある高尚なモラリティが、自由競争社会である資本主義社会の荒波の中では、単なる机上の空論でしかないことをよく知っている。高等魔術を極め、高い知識水準を持ち得たであろう多くの魔術師達は、皆一様に謙虚であり、高い倫理観を有していたであろうか? 残念ながら答えはNOであろう。彼らは卓越した見識と、豊富な実践体験を有していた筈である。魔術結社の歴史が内紛と分裂の歴史であったというのならば、我々は一体何のために魔術などを学習しているというのだろうか?

これらの問いを発することは誰にでも容易に出来ることである。しかし、ここで我々は先人達の書き残した幾つかの文書に対して、少なからぬ詳察を行わねばならない。何故ならば、あらゆる理想主義は現実との軋轢によって、紛糾し、崩壊する可能性を有しているからである。だが翻って考えてみれば、まず最初に理想が構築されていなければならない。我々は、まず目標を定め、次にそれが本当に実現可能なものであるかを考究せねばならないのである。「黄金の夜明け」団の内陣にて回覧されていた一連の魔術文書『飛翔する巻物』の第13巻は友愛団に於けるヘルメス的愛を扱った文書である。この文書の作者であるフローレンス・ファーは初期の「黄金の夜明け」団を語る上では、欠かすことのできない人物であるが、もし彼女が執筆したこの文書の高尚なる教えが、同団にて実践されていたというのならば、何故「黄金の夜明け」団の魔術師達は、あのような内紛劇を演じ続けたのか? 彼女は「黄金の夜明け」団の外陣における四つの元素位階での訓練が、精神のバランスと発達を積極的に向上させるものであると定義している。この見解は「黄金の夜明け」団の魔術を学ぶ修行者の全てが、容認している基本的事実である、と考えられてきた。私はこの見解は徹底した実践作業の積み重ねによってのみ、証明できる事実あって、単なる文献上の常套句にしてはならないと痛感している。何故ならば、この言葉もまた、安易な理想主義と幻想をいとも簡単に産出してしまう危険性に満ちていると思えるからである。更に彼女は、自然のままの人間がアンバランスで混沌とした存在であると警告を発している。またヘルメス的愛を実践する魔術師は、恥ずべき情熱である嫉妬を克服せよと断言しているのだ。確かに彼女が執筆したこの巻物は、現在に於いても尚、優れた指導書となっている。しかし、多くの「黄金の夜明け」研究家達が明らかにしたように、この高尚なる教えを徹底して実行できた人物は存在しなかった。

黄金の夜明け」団のプラクティス位階 3=8 位階文書の一つに『一般的指導及び魂の浄化に関して』と題された文書がある。同団の位階制度と四大との対応によれば、この位階は「水」の位階に相当する。魔術師は自らの感情と欲望を制御すべく、この文書に対して熟考せねばならなかった。現代の如何なる魔術師にとっても、この文書は単なる理想の集塊としか思えないかもしれない。ともあれ、古えの魔術師達は、志願者に警告を発することが大好きであったようだ。儀式魔術の実践者に、悪霊の憑依や報復を警告する自称アデプトは、ある意味では正しかったかも知れない。しかし、多くの情報を自由に収集できるようになった現代の魔術師ならば、書物に書かれた警告をそのまま鵜呑みにする前に、何らかの形で自分自身の見解を構築することが可能であるに違いない。
さて、古えの訓戒集(『一般的指導及び魂の浄化に関して』)の全てを鵜呑みにする必要は果たしてあるのだろうか? おおよそ実現不可能な高邁な理想を掲げたところで、何ら意味はない。事実、この教育を施した魔術師達の集団「黄金の夜明け」団においても、理想は現実のものにならなかったではないか?

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Liber Librae
Sub Figura XXX
Book 30
A∴A∴ B級刊行物
均 衡 の 書
(『一般的指導及び魂の浄化に関して』のA∴A∴版)

0. 汝、わが古き団に志願したる者よ! まず最初に均衡こそが「作業」の真の基盤であることを学べ。もし、汝自身が確固たる基盤を持たざれば、「自然」の諸力を直接求めるにおいて何処に立てようか?

1. されば知れ。「物質」の「闇」と相克する諸力のただ中に人が生まれてくるからには、人の最初の苦闘は諸力の和解を通じて「光」を求めることにある。

2. かくして、この世の試練と苦難を経てきた汝は、それらを喜ぶべし。なぜならば、その中にこそ「力」があり、そられらによりてこそ「光」に通じる径が開かれるのだから。

3. 他に為すべきことがあろうか、おお人よ、汝の命は永遠の中にありて一日に過ぎず、時の大海にあっては一滴でしかない。もし、汝の試練が少なければ、いかにして汝は地の不純物から清められようか? いまこそ高次の生が危機と艱難に苦しめられる時なり。過去の賢人や神官達においても同様ではなかったか? 彼らは迫害され、汚名をきせられ苛まれてきたが、それゆえにこそこの試練を経て「栄光」を増してきたのである。

4. ゆえに秘儀参入者よ、喜ぶべし。汝の試練が大きければ、汝の「勝利」も大きくなる。人が汝を罵り、汝に偽りの責めを負わせた時、「師」は「祝福あれ!」とは云わないであろう?

5. されど、おお志願者よ、汝の勝利を「虚栄」としてはならない。「知識」が増すとともに「叡智」も増すべきであるがゆえに。なにも知らぬ者は多くを知っていると思い込む。しかし多くを知る者は、己の無知を学んでいるのだ。自惚れた賢者など見たことがあろうか? そんな者よりも愚者の方がまだ望みはあるだろう。

6. 他人を早急に責めるなかれ。汝がその立場になれば誘惑に屈しないと誰が云えようか? たとえ屈しないとしても、汝よりも弱きものを軽蔑するのは正しきことか?

7. ゆえに汝、魔術の才を求める者よ、汝の魂の堅忍不抜たるを確固とせよ。汝の弱さを褒め称えることで「弱さ」は汝にたいして支配力を及ぼすのだ。汝の「自己」の前で身を慎め、されど人も霊も恐れるなかれ。恐怖は失敗であり、その先駆けなり。勇気は美徳の始まりなり。

8. ゆえに霊を恐れるなかれ、彼らに対して確固たる態度を示し、また礼を失するなかれ。なぜならば汝には彼らを軽蔑する権利も罵る権利もないからだ。そは汝を過ちへと導くものなれば。彼らに命令を発し、追儺せよ。必要とあらば偉大なる名前で彼らを呪え。されど嘲ったり、罵ったりしてはならぬ。そは汝を過ちへと導くこと確実であるからだ。

9. 人は受け継いだ運命の枠内で自らに影響を及ぼすものなり。人は人類の一部である。彼の行動は彼が彼自身と呼ぶものに影響を及ぼすのみにあらず、宇宙全体にも影響を及ぼす。

10. 肉体は崇拝しても無視してもならない。肉体は汝と外の物質世界とを結ぶ仮の繋がりである。ゆえに心を「均衡」に保ち、物質界の出来事に心乱されることなかれ。動物的熱情に強くあれ、そして制御せよ。感情と理性を調教せよ。高き志を養うのだ。

11. 報酬のためでもなく、感謝のためでもなく、同情からでもなく、自身のために善をなせ。もし汝が寛容たれば、長く感謝の言葉を聞くには耐え得じ。

12. 均衡なき力は邪悪なり。均衡なき峻厳は残虐にして抑圧なり。また均衡なき慈愛も「邪悪」を許す弱さに他ならず。情熱的であらんことを、理性的であらんことを、汝自身になるがよい。

13. 真の儀式は行動であり、言葉であるだけでなく「志」である。

14. この地球は宇宙の中の一原子であり、汝自身もその原子上の一原子に過ぎないことを肝に銘じよ。また、たとえ汝がこの地球の神になり得たとしても、汝は地球上を這い回るのみであり、多数の原子の中の一原子でしかないのである。

15. それでも最大限の自尊心を抱き、最後まで罪を犯すことなかれ。許されざる罪は、その真理を知りつつも敢えてそれを拒否し、知識が汝の偏見につけ込むがゆえに知識を恐れることである。

16. 魔術的な力を得るためには、思考を統御することを学ぶべし。望む目的に調和する着想のみを認識し、沸き起こる全ての迷いや矛盾した「着想」を排除せよ。

17. 方向の定まった思念は目的達成への手段なり。ゆえに沈思黙考と瞑想の威力に注意を払うべし。物質的行動は単なる思念の外的表現に過ぎず、ゆえに「愚かなる思考は罪なり」といわれている。ゆえに思念は行動の開始点である。そして、もし偶然の思念が大いなる影響を生み出せるのであれば、方向の定まった思念に出来ないことがあろうか?

18. ゆえに既に述べられたるが如く汝自身を諸力の均衡のうちに、「元素」の「十字」の中心に「確立」すべし。この「十字」の中心より「創造的言葉」が、明けゆく宇宙の誕生のうちに発せられるのである。

19. 汝はゆえにこう告げられたり。シルフの如く迅速にして快活たれ、されど軽率と気まぐれを避けよ。サラマンダーの如く旺盛にして強健たれ、されど短気と獰猛を避けよ。アンダインの如く柔軟にして慇懃たれ、されど怠惰と移り気を避けよ。ノームの如く勤勉にして辛抱強くあれ、されど野卑と貪欲を避けよ。

20. ゆえに汝、徐々に汝の魂の力を発達させ、元素の「霊達」に命令を下すに相応しい存在となれ。なぜなれば、もしノームに貪欲の手助けをさせるならば、最早ノームに命令を下しているのではなく、ノームが汝に命令を下すであろう。汝、山々や木々の純粋な創造物を悪用して自らの私腹を肥やし、黄金への渇望を満たそうとするや? 汝、「生ける炎」の霊達を汚して汝の恩讐を晴らそうとするや? 汝、「水」の「魂」の純潔を汚して自らの放蕩の欲望を満たそうとするや? 汝、「宵」の「そよ風」の「霊達」に強いて自らの愚考と気まぐれに奉仕させるや? そのような欲望で汝が引きつけたるものは、「強さ」ではなく「弱さ」のみであり、「弱さ」が汝に支配力を持つことを肝に銘じよ。

21. 真の宗教に分派なし。ゆえに汝、他人の神の名前を罵るなかれ。他人はその名前にて自らの神を知るものなればなり。もし汝ユピテルの名を罵れば、それ即ちIHVH を罵るものなり。もしオシリスを罵るならば、汝はIHShVH を罵ることとなろう。求めよ、されば与えられん! 捜せ、されば見出されん!門を叩け、されば開かれん!

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魔術師が、己の存在を卑俗な人間存在から剥離させてしまう幻想によって悲劇は召喚される。何よりも我々は人間として生まれ、人間として生きていかなければならないという事実を否定することは出来ない。我々は無謬の存在にあらず、多くの過ちを犯し、何時終わるとも知れぬ愚行を演じ続ける。我々は強者であるのか? それとも弱者であるのか? 我々は己が理想を実現するに足る行動力と意志を有しているのか?
問いは常に噴出し、生命を曇らせる。しかし、我々に可能な打開策は、唯一、それらの問いを自らの内なる教師へと尋ねることである。問いを発することは、実に自然な啓発的行為として、自らの魂を鼓舞するに違いない。そして、私にとっての唯一の打開策もまた、自らの瞑想作業を通して、問題に対する解決の糸口を探ることであった。瞑想の焦点として選択された幾つかの文章は、いずれも『一般的指導及び魂の浄化に関して』から選ばれたものである。私は太陽が顕現する方位である東に向かい、自らの意志を誓言し、神の姿勢に座した。その後は、我々が常時用いてきたリラックスと規則的呼吸によって、自らの内面へと潜航し、内なる教師との会話を楽しむだけでよかった。私は、まず問いを発す。精神が鎮静化し、沈黙が言葉を遮断したならば、続いてごく自然に、蘇生した言葉が湧き起こってくる。私はそれらの言葉を記憶できる限りにおいて記録し、自らの魔法日記に綴じ込んだ。終了した実践に関して、後日更に発展した概念や間違いに気づくことはしばしばある。従って、私はVoiceと共に、幾つかの考察をも併せて記述することにした。以下は、『一般的指導及び魂の浄化に関して』に対して行われた瞑想作業の結果の些か稚拙なる一例として読者諸氏に開陳するものである。

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「諸力の和解を通じて<光>を求めること」

均衡の美徳とは、我々魔術師が探求する第一義的テーマである、としても均衡とは、一体何なのか? 二者或いは多者が、互いに互いを侵害することはなく、釣り合い、補い合う相補性によって調和の確立が樹立することである。しかし、言葉に綴っても何と虚しく、説得力のないことだろう。

Voice
“光が無限へと拡大していくのならば、その径を阻むものなし。均衡を物理的次元で観ずるのではなく、永久の至福として、いと高き統合の神秘、神の意識として観よ。何故ならば均衡は最も絶対的な安定にして、逆説的に自由でもあるからだ。”

完全なる均衡とは、調和、釣り合いによる事物の停止、死、滅却なのであろうか? そう、死や停止は、ある者にとっては無限の恐怖である、ある者にとっては至福ともなり得るものである。しかし、均衡が非生産的な停止状態であるとは思えない。

Voice
“諸力の和解は、強固たる基盤なり。そはピラミッドの底面に似て、安定であり大地でもある。その基盤より無限の光の上昇がある。この安定を生み出す均衡は、統合された力と実在である。故に神性へと上昇する光の流れは諸力の和解の後に見出される。”

均衡の理解は言葉を超越し、時間としいう概念を破壊する。魂を浄化する絶大なる力は、安定による<平穏>を必要不可欠とするということなのかも知れない。

「過酷な試練を経て魂が地上の不純物から清められる」

私が、この瞑想を開始した時に、即座に思い浮かべたイメージは、連なる山々へと続く曲がりくねった一本の道の映像であった。最も遠くにある、最も高い山の頂上にはタロットの「隠者」に似た老賢人が光のランプを掲げ立っていた。

Voice
“誰もがこの光を目指して道に足を踏み出す。一つ目の山を越える時、呼吸は乱れ、心臓は破裂するかの如く鼓動する。苦闘と共に頂きへと到達し、山を下りる時、志願者は満たされた何かを得ているであろう。それでも眼前には二つ目の山が聳えている。艱難辛苦が存在するだけでは何の意味もない。挑み、行動し、達成した者だけが獲得する強さの蓄積ことそが真の宝石である。
三つ目の山に挑む時、恐怖は志願者を悩ませはしないだろう。試練と達成の喜びが交互に訪れる道程の中で志願者は確実に自らを光と同化させていくのであるから。”

我々は少なくとも反復する作業を訓練体系を基礎に置く。何事も一回の挑戦で達成できるものではない。「過酷な試練」とは、達成の次に訪れる反復する運命である。我々の財産は力の蓄積にある。錬成作業は繰り返され、強さは少しずつではあるが蓄積され輝きを放つようになる。いわば魂と肉体の浄化は反復される激烈な化学反応により誘発されるのである。

「汝の試練が大きければ、汝の「勝利」も大きくなる」

何故、我々は魔術の修業を続けていくのだろうか? それを継続させることによって我々は如何なる利益を得るというのだろうか? 事実、多くの時間と労力が、それによって消費されてきたではないか? 不確定で、いつ訪れるとも知れぬ未知の達成と勝利の為に、何故それを続ける必要があるのだろうか? この問いを自らに発したことのない修行者などは存在しないだろう。試練の巨大さを推し量れば、我々はその膨大さに圧倒されるだろう。我々は数年から数十年にもわたって日々の実践を繰り返していかなければならないのである。また、実践作業の内容と結果を一生記録していかねばならないのだ。しかも、何の見返りも期待できない。そのような重労働を行ったからといって誰も何も恵んではくれないのである。

Voice
“主は大いなる供物を差し出せと命じただろうか? 犠牲なき達成など、たとえ宇宙の秩序が崩壊しようともないものと思え。真の勝利はアッシャーを越える。完全なる輝きは自由として無限になる。魂の浄化は如何にして為されたるや?”

私は自らの情熱を犠牲の祭壇へと捧げねばならない。汚れた魂は青銅の海によりて清められねばならない。私は他者を誹謗、攻撃する自らの「弱さ」に打ち勝たねばならない。ただし、これは他者と決して争ってはならない、ということではない。我々は魔術の修業を通してもまた、人生を学ぶのである。我々は試練に否応なく挑む。我々がそれによって得るものは---求めるものは---これもまた自身の内側以外には存在しないのである。

Voice
“真実の自分に直面する勇気を持つ者は幸福である。彼は自らの手で自らの試練を巨大にしていくのであるから。真の弱さは常に内側にある。魂の神殿にて跪き、祈りを捧げるものには祝福が下る”

私自身について語れば、不幸にも無知な弱者という以外には表現のしようがない。それでも、私は自らの試練を常に念頭に置き、自らの務めを遂行すべく生活している。過去、多くの魔術師志願者が、修業の径から撤退していった。彼らの多くは、現実社会からの逃避者であったようにも思える。彼らは理想郷を求め、魔術の径に関心を抱いたものの結局は魔術の径からも逃避してしまった。我々は、なによりもまず自身と戦い、自身の試練に挑むことを肝に銘じるべきである。恐らく、親しい友人の一人もなく孤独にオカルト雑誌を読み耽っているような人物は魔術師には向かないだろう。何故ならば彼の頭は現実的な修業ではなく、不毛な理想郷と逃避により占められているからである。

「多くを知るものは自らの無知を学ぶ」

客観的概念や論理性、構造的セオリーなどは正しく自我と知性の産物である。この世に知識と呼ばれているものは無限に存在している。しかし、<知識>と<叡智>は全く別のものである。<叡智>とは、ほんの一つのちっぽけな破片であろうと無限であるのに対し、<知識>とは、それ自身では機能し得ない機械の部品の一つに過ぎない。例えば、私はこれまで自己を探求する作業に従事し、魂の諸要素に対する幾ばくかの<知識>を得てきたと自負している。ところが、本質的な自分というものは、神性に近づくどころか、むしろどんどん遠ざかっていっているのだということが良く解るようになった。事実、このような現象は不可思議なものではないと思う。進化とは、決して直線的に直進していくものとは限らないのである。

Voice
“対象を知れば知るほど、自分との相違点は明確化していく。真の叡智は直観と高揚の産物たることを知れ。そは相応しき器にのみ降り注ぎ、相応しき魂にのみ所有されたるものなり。”

真の叡智とは即ち<祝福>であるのだ。試練なき<祝福>などが存在するなどと教える導師は、弟子に<自惚れ>以外の何ものをも与えることはないだろう。だが、ここで我々は問うべきである。そもそも、人間などに神性を獲得することなど出来るのだろうか?と。偽りの教師はいとも簡単に自らを神格化してしまう。その危険性は云うまでもないだろう。私自身も「私は人間ではない」と語るおめでたい神秘主義者に出会ったことがある。彼らが啓発的な言葉を我々に投げかけてくれることはない。奇妙に歪んだ逃避心が、時に人間に巨大な幻想を抱かせるのである。例えば、初心者がよく陥り易い過ちの一例として、真理を悟った者と精神異常者を混同するというものがある。真理を悟った者が愚者の如く振る舞うからといって、導師と精神異常者を同一視してしまうことは、あまりに短絡的に過ぎる。我々はまず、謙虚であらねばならない。その為には、必要以上に言葉を弄ぶのではなく、厳密な経験主義者としての実践的な修業体系に身を投じていなければならない。真の自己観察能力は、修行者を保護してくれるだろう。自らの無知を認めることは、何ら恥ずべきことではない。それらを常に認識する為にも、自らの記録はしっかりと保持すべきである。

Voice
“人間は人間であり、人間でしかない。知識のみをもって人を超越することはない。然るべき対象が消滅し、心が無と同化した時、言葉を越えた叡智が訪れる。謙虚たれば光が下り、無知ためことの認識なくば偽りの自我に呑み込まれる。正しくも知識の本質たるや霊である。”

魂の知識と書物による知識の違いは明白である。魂の知識は他人から伝授してもらおうとしても不可能である。全うな教師ならば、弟子の質問の全ての質問に答えることはしないだろう。即ち、弟子にとって最も重要なことは、自らで答えを発見する能力を独自で開発することなのである。我々は「多くを知る」ことを欲する。しかし、真の叡智は自らの学びへの熱意以外のものによって召喚されることはないのである。

「悪口と自信過剰のうちにこそ罪があることを肝に銘じよ」

誘惑された者は必ずや罪を犯し、堕落する運命にあるのだろうか? 楽園追放は如何なる意味合いに於いて<罪>といえるのだろうか? “罪人を赦せ、されど罪を奨励するなかれ”という言葉が真に意味するところは何なのだろうか? 前述したように原初の楽園(エデン)---調和と至福---を破壊するきっかけを作ったのは誘惑者たる蛇<ナカシュ>であった。エデンが至福の調和の内にある間は、エドムの王たち = 邪悪なる力、クリフォトの諸力はエデンに近づくことすら出来なかったのである。

Voice
“より深遠なる意味合いに於いて、己の罪を罰する者は己以外には存在しない。罪とは既成の常識や秩序を破ること、或いは行動の様式を逆転させてしまうことである。故に罪は常に悪を産み出し続けるわけではない。ただし、自らの責任に於いて罪を犯すものと、他人に対し、それを為すものとの間では大きく意味合いが違ってくる。人は罪を犯す、何故なれば、人であるが故なり”

罪を犯した者は、罪を犯したことのない者よりも弱く、汚れた存在であっただろうか? また、たとえそうであったとして弱者を軽蔑する態度は正しきものなのであろうか?

Voice
“罪を犯したことのない人間などが存在するであろうか? おお、故に罪人を赦せ。そして噛み締めよ、悪口と自信過剰の虜となりしものこそが真の弱者であり、罵られるべきであることを。”

我々は強くあることを欲する。事実、弱者が垣間見る霊的世界は矮小なる自我の閉鎖的パノラマ世界に過ぎない。我々を誘惑するものが、常に我々を取り巻いていると考えることは、時に危険な偏執狂的妄想を引き起こす。だが、我々を誘惑するものは悪霊の類だけではないはずだ。我々はすべからく志願者であり、自らを崩壊させるような思念から脱却すべきである。しかし、悲しいかな、我々にそれを為すことは不可能なのである。何故なら、人は本能的に自らの優越感を満たさんがため、隣人を罵るからである。

「汝の「自己」の前で身を慎め、されど人も霊も恐れるなかれ。」
 ※『一般的指導及び魂の浄化に関して』では「自己」ではなく、「神」という言葉が使われている。

恐れ(原文はFear)は畏怖とは異なり、恍惚の振動を齎してはくれない。恐怖は常に我々の心の隙間に侵入してくる厄介な魔物であるという訳だ。我々が肉体を弛緩させたり、呼吸をもって心を鎮める目的の一つは、精神そのものに平穏を齎さんがためのものである。人間は間違いなく未知の存在に対して恐れの感情を抱く。我々が無意識内の未知なる存在に思わず遭遇し、恐怖に駆られることは実に自然な感情の表れであるといって良いだろう。「恐れは失敗であり、失敗の先駆けなり」という言葉そのものは、勇気の美徳を推奨する言葉でもある。我々は、時に人に対して恐怖を覚える。それは必要なことかも知れない。そして、恐怖の根源は、常に己の魂の深奥部にあることを理解せねばならない。外宇宙から飛来した地球外生命体や、かつて地球上を支配した旧支配者達を西洋オカルティズムに取り入れたところで、大したスパイスにはならないだろう。我々が外の世界に投影する魂のファンタジーは、楽しんでこそ意味があるものなのだ。

Voice
“勇気もて挑め、何故ならばそれが正義であるから。栄光を手中に収めし者の美徳こそがそれであるから。恐怖を追儺せし者は限りなき才を享受せし者、これぞ光の勝利者なり。汝の神とは、汝の信念・汝の真の意志に等しい。自らを欺くことなかれ、恐怖に屈することなかれ、弱者を苦しめることなかれ。”

恐らく、恐怖を完全に撲滅することなどを考える必要はないだろう。人は人であるが故に、あらゆる存在に対して恐怖を抱く。恐れ・不安・嫉妬・妬み、あらゆる心の悪魔どもは、魔術師にとっては隠された封印を開く扉である。勇気さえあれば、魔術師はそれらの悪魔を眼前に呼び出すことが出来るだろう。そんな時はこんな風に彼らに問い掛けてみれば良い。「やあ、やっぱり君はそこにいたのか。そろそろ暗い部屋を出て外に出掛ける時間だよ。君の新しい仕事は××だ。さあ、元気を出していってらっしゃい」。

「ゆえに霊を恐れるなかれ、彼らに対して確固たる態度を示し、また礼を失するなかれ」

ここで我々は霊魂の発達のヒエラルキーという、厄介な問題に直面することを余儀なくされる。我々か学ぶヘルメス的カバラは神々、大天使、天使の軍団を人間存在よりも上位の存在と位置付け、彼らを召喚するものと説く。彼らに対しては礼を尽くすのが当然のことのように思える。事実、これらの存在に命令を発し、使役する感覚を持ってしまったならば、取り返しのつかない大失態を引き起こしかねない。神を、高次の自己を罵ることが、どうして可能となろうか? 神の来臨を仰ぎ、自我が光の振動で酩酊しているその最中において、神を罵る言葉などは何処にも存在しない。我々は、これら上位の存在に対しては、いつでも謙虚になれるだろう。彼らは、我々の高揚の焦点であり、魂の発達のシンボルであるのだから。他方「黄金の夜明け」団の教えは<邪悪なる者>たちに対しても嘲りや罵りは禁物であると説く。勿論、それらを崇拝せよ、と説くことはない。我々は邪悪の本質を理解するためには、己自身をじっくりと省察する以外にはないのだという事実に気付かねばならない。そして、人類よりも進歩の遅れた霊たちが我々よりも愚かで邪悪な存在なのかどうかを問わねばならない。またあらゆる霊は、その固有の界において必然であり、厳密に職務を遂行している存在であることも理解せねばならない。

Voice
“いかなる場合に於いても魔術師が出会いし諸々の霊たちは魔術師の一部である。礼を失すれば諸霊は暴走し、そを恐れれば諸霊は汝を苦しめるだろう。霊たちは気まぐれであり、自らの存在を知らしめるよう努める。勇気もて挑め、何故ならばそれが正義であるから。”

霊への罵り、軽蔑の危険性はどこにあるのか? 何故、我々は霊を罵る権利を有してはいないのだろうか?

Voice
“すべての霊魂が混然一体となって我々の宇宙を形成している。調和を乱すなかれ、霊への軽蔑は神へのそれに等しい。礼を失するなかれ、存在する万物はすべからく意味を有す。霊を罵るなかれ、志願者は自信過剰と自惚れに呑み込まれては破滅してしまうのだから。”

自身を理解する行為が宇宙を理解する行為と同義であることは明白である。我々が有する諸霊のヒエラルキーは元素霊を、悪魔たちを差別するため・貶めるため・罵るために存在しているのではない。何故ならば、我々は如何なる霊に対しても礼を失することはないのだから。慈愛とは、気だるい同情とは異なり勇気の証しである。誰もが強くなければ、また確固ため態度を持っていなければ、他者に対して愛を注ぐことは出来ない。我々が自らの闇を直視する時、勇気と強さを有してさえいれば、なんら悪魔たちを罵る必要がないことに気付くだろう。

「人は受け継いだ運命の枠内で自らに影響を及ぼすものなり」

人の受け継いだ宿命とは、正しく「人として生まれ、人として生きていかねばならない」という事実であろう。肉体と物理世界が与える重圧と艱難辛苦は全ての人々を取り巻き、「すぐそこにある試練」として常に我々と共にある。人の行動には積極的意志が介在せねばならない。その意味に於いて、我々の宿命を決定するものは、実は我々自身の行動の規範と意志であることが解る。行動とは、すべからく結果を生じせしめる原因となるものである。従って、”彼の行動は彼が彼自身と呼ぶものに影響を及ぼすのみにあらず、宇宙全体にも影響を及ぼす”のである。神秘に彩られたオカルティズムの世界観は、時に修行者の魂を飛翔させるに相応しいだけの魅力を発揮する。我々が、ゆったりとくつろぎ、心の中のたおやかなヴィジョンに接する時、世俗の問題は卑小なるものに思えてくる。
「我々には魂の学があり、高邁なる理想と哲学がある。我々は社会的不均衡とは隔離された自らの大宇宙の中で微睡み、会話し、学ぶことが出来る。肉体は魂の乗り物に過ぎない。我々は広大なる魂と内なる宇宙と自由のみを崇拝する。」
これらの諸概念は危険であることに加え、自らの宿命に対しても極めて否定的である。勿論、魔術師は自らの円環の中に立ったとき、自らの意志によって思うが儘に精神を飛翔させる権利を有する。自らの内なる宇宙に埋没し、世俗の全てを忘却し、一心に望む目的に集中する事が出来る能力は我々が真に欲するものである。しかし、そのような精神状態を恒常的に維持し続けることは到底不可能である。事実、我々は大部分の時間を世俗の中で暮らす。それこそが人が受け継いだ運命であることを理解せねばならない。これらの概念は人をして呪縛の監獄の中に封印することを意味しない。何故ならば、我々は受け継いだ運命の枠内で自ら作ることが出来るからである。

Voice
“宿命とは涙の海である。その中で溺れ死ぬものもいれば、自由に泳ぎ回るものもいる。宿命の海の中で自らを失えば、歩むべき方向性を失ってしまうだろう。その海を渡る船は志願者の魂である。強くあれ、虚偽という名の重圧で自らを沈めることなかれ。自己欺瞞や自惚れという名の嵐を起こすなかれ。精神は鎮まりてこそ自由を獲得する。宿命を受け入れ、それを楽しめ。”

自分自身に真に影響を及ぼすことが出来る存在は自分自身をおいて他にはない。悲しみや苦悩が訪れた時、本当の意味でそれを拭うことができる者は自分自身の行動と勇気のみである。人としての宿命を嘆く者に真の意志を実践することは出来ない。神秘の径すらも、己の強さ抜きには、途端に光を失ってしまうだろう。

Voice
“人よ、人として理解せよ。人よ、人として強くあれ。人よ、人として行動せよ。”

これこそが我々の世界の基盤である。

「報酬のためでもなく、感謝のためでもなく、同情からでもなく、自身のために善をなせ」
  ※『一般的指導及び魂の浄化に関して』では、「自身のため」ではなく「神のため」という言葉が使われている。下記の考察と声は「神のため」という「黄金の夜明け」団のオリジナル文書に基づいて実施されている。

この言葉は一読しただけでは、敬虔なキリスト教徒の慈善主義と何ら変わるところはないように思える。しかし、文脈の中に於ける神とは如何なる宗派の如何なる神のことを指すのであろうか? 「神のために」とは、存在の本質、「真の意志のために」と同義である。神は人間が創造(想像)した超越的理想像、或いは完全性への憧憬から生じた架空の存在---投影像であるという議論は意味を成さない。もし、人間の内面に聖なる閃きが存在していなければ、如何にして人間は神を創造し得たというのか? また人間の内面に闇が存在していなければ、如何にして人間は悪魔の軍団を創造(想像)し得たというのか? 我々が物質世界に生き、為すべき行動の筆頭に挙げられる行動は、正に「為すこと」、即ち労働をもって報酬を得、またそれぞれの度合に応じて社会に奉仕することである。それでは、神のために為す<善行>とは如何なる行動となるのだろうか? また見返りや感謝を求めない行動とは如何なる行動のことを指すのであろうか?

Voice
“報酬も感謝も求めてはならない。何故なら、それは与えられるものであり、求めるものではないからだ。それは魂の発達と癒し、自己の発見として与えられるものだからだ。もし、この宇宙に真に価値のある報酬があるとするならば、そりこそは神より齎される光である。しかし、行動の前に結果を期待してはならない。純粋さとは報酬を要求しない献身の美徳の中にこそ存在するものだからだ。”

薔薇十字伝説に登場する社会奉仕への行動として筆頭に挙げられたものは、アデプトらによる「無償での治療、癒し」であった。彼らは何故、無償での治療を行うことを自らの職務としたのだろうか? 私のような凡庸なる存在にその真意の程は理解できない。しかし、一つだけ理解できることがある。それは「他人を癒す行為は自己を癒す行為に等しく、他人に癒される経験は、より普遍的なる友愛精神を魂に根付かせる行為に直結する」という事実である。彼らの行動は全て神的なまでの慈愛に基づく行為であっただろう。考えてみれば良い。もし、彼らが報酬や見返りを期待してこれらの行為を行ったとして、果たして彼らの理想が実現される可能性があっただろうか?と。勿論、その行動には多大な労力と犠牲が払われたことだろう。他方、彼らは単なる伝説上の存在に過ぎないとする論もある。しかし、大切なのは薔薇十字伝説が伝える友愛精神の哲学にある。従って本来は彼らが実在するか否かは、(少なくとも我々にとっては)本筋の問題ではないのである。

「真の儀式は行動であり、言葉であるだけでなく「意志」である」
※『一般的指導及び魂の浄化に関して』では、「真の儀式」ではなく、「真の祈祷」という言葉が用いられていた。

真の祈祷(True Prayer)とは如何なる存在に対して為されるのであろうか? 人は自らの内に眠る神性の閃きを、その輝きを、直観的叡智を知っているのであろうか? 祈りは本質的には神性とのコンタクトを目的とする。対象無き祈りが存在し得ないのと同時に意志なき祈りもまた存在し得ない。我々が望む行為はすべからく達成を意図している。即ち、祈りとは技法でもあり、魔術でもあるのだ。

Voice
“祈りとは文字通り<言葉>である。しかし、感情の伴わぬただの言葉の羅列が祈りと呼べようか? 言葉は肉体に振動を呼び起こし、覚醒させるばかりではなく、人の内にある真の意志をも刺激する。故に祈りとは告白である。多くの祈祷は、多くの神秘を呼び寄せるのである。”

瞑想もまた祈りである。いずれにしても我々は、意志し、行動し、変化を引き起こさなければならない。瞑想する者も祈りを捧げる者も本質的には自己の姿を追い求めている。これらの行為は「より高い志」と呼ぶに相応しいものである。それでも、我らの教えにあるが如く、自らが一個の原子に過ぎないことを肝に銘じていなければならない。如何なる存在も神を越えることは出来ない。何故ならば、それ以上のものは何もないからである。しかし、一つの原子の有する可能性は無限のものかも知れないという事実も同時に存在しているのである。

Voice
“心臓の中心より輝ける光の光輪が拡大していく。叡智たる言葉を行動と意志に合致させよ。創造主が「光あれ!」と叫んだように、大いなる父の力を、その魂の内側より目覚めさせよ。”

真の祈祷とは実在たる力である。それは意志に育まれた卓越した行動であり、叡智である。我々は崇敬の対象が何であれ、無形の祈りは必ずや結晶化した叡智を我々の世界に齎してくれるだろう。

「望む目的に調和する着想のみを認識し、沸き起こる全ての迷いや矛盾した「着想」を排除せよ」

意外なことに、人間たるや己の真に望む目的すら明確に定義出来ない場合が多い。<望む目的>が明確でなければ、「それに調和する着想のみ」を認識することは不可能である。そこで我々はまず、<望む目的>を明確にすることから始める。方向の定まった思念は目的に達する手段であるのだから、思念そのものを統御し、自身の意志を表明しない内は何も始まらないのである。静かに眼を閉じ、一点の光をイメージする。光への最短距離は私自身と光とを結ぶ一直線のラインに他ならない。私が光を熱望すれば、その一直線のラインは私にとっての調和の径となる。いずれにしても、我々の飛翔を叶えるものは意志の力と熱望である。あらゆる径は困難であり、また起伏に富んでいる。しかし、<望む目的>を明確にした者は既にその径へと一歩足を踏み入れているのである。

Voice
“雑念や妨害者が何処から来るのかは明確なことだ。集中の前に、まず沈黙を保て。沈黙が自然に発動し、一つの点に収斂してこそ、思念は不動のものとなるからである。行動は一度、アポフィスの毒に拘束され強さと忍耐を得る。困難な目的ほどその苦痛も巨大になる。だが行動の美徳の中には無限の教えが秘められているのだ。”

「思念は行動の開始点である」とは実に興味深い言葉である。自らの意志と目的を明確化し、行動に移すことが比較的困難なことに比べ、欲望或いは<ネフェシュ>的動物的欲求は、如何に容易に人を行動へと駆り立てることか。我々は精神の自由を失ってはならない。しかし、「愚かなことを思うのは罪である」という自戒の句にする必要もあるだろう。我々は欲動を決して否定してはならない。しかし、突き動かされた欲動の所産は、我々の望む意志の魔術とは無縁であることを強く認識しなければならない。

「汝自身を諸力の均衡のうちに、「元素」の「十字」の中心に「確立」すべし」

この言葉こそは『一般的指導及び魂の浄化について』文書中のハイライトである。多数の訓戒の中に述べられている数々の注意書きは、実のところ実践魔術の基本原理に基づいている。そしてこの言葉を参照すれば、事実上この文書の流用であるアレイスター・クロウリーの『Liber Librae』(O.T.O.魔術師の為の初歩的道徳指導)が正しくも『Book of Balance』と呼称されている理由も明らかとなるだろう。ここで我々はこの文書の冒頭に戻らねばならない。即ち、「汝、わが古き団に志願したる者よ! まず最初に均衡こそが「作業」の真の基盤であることを学べ」という言葉に。我々の<大作業> Great Work, Magnum Opusには魂の変成作業が伴う。我々の学ぶヘルメス的オカルティズムの説くところによれば、我々自身の元素的基盤の構築と諸力の均衡化こそが魂の向上と意志力の強化に繋がるのだという。「黄金の夜明け」団の位階カリキュラムがこの事実を踏まえたものであることは云うまでもないだろう。ここで我々が考察すべきものこそは<魂の錬金術>と呼ばれる古来からの叡智である。四大元素の特性は、我々高等魔術の学徒が最初に学ぶべき基本原理である。<火> 熱にして乾、<水> 冷にして湿、<風> 熱にして湿、<地> 冷にして乾。
しかし、「黄金の夜明け」団の教義文書は多くを語ってはくれない。事実、上記のような分類に何の意味があるというのだろうか? 我々が考察すべきことは宇宙を構成する諸要素が何と何であるのかを考究した古代人達の議論と研究の結果ではなく、我々自身の魂の諸側面と四種類の元素についてである。ここで我々は、自らの存在と常に真実を告げる、かの大自然とを照応させねばならない。そこから得られる一つの回答はこうである。「あらゆる元素は単体では存在し得ない。自然界の混沌と混在、流転と相互関連性は我々の魂の内にも同様に存在している」。故にこれらの混沌を制御しようと意志する者は、まず単体としてのそれぞれの元素を理解せねばならないのである。それは混沌とした自然のままの魂を分類、分析する行為である。換言すれば「自らの意志の下に自らの魂の在り方を決定しようとする」行為である。諸力の混在を認識し、それらが如何なる単体によって構成されているのかを理解しなければ、諸力を均衡させることなどは不可能である。故に我々はまず均衡の作業の前に、それらを独力で発見していかねばならないのである。何故「独力」で発見せねばならないのか? それは次の一言に要約してよいものと思う。「人が一億人いれば、一億個の異なる特性の魂が存在することになる」からである。

Voice
“十字架の中心より発せられる創造の言葉は、真の意志の発動である。何故なら、そこには均衡より齎された勇気と強さと美の結晶が存在するからである。十字架の中心に咲き誇る真紅の薔薇の芳香が心臓より放たれたる真実の光であるように、宇宙創造の言葉---光あれ!---は勝利とともに空間を振動させるであろう。”

均衡する十字架の中心に輝く光は、唯一の支配者である。ここにおいて始めて我々は、聖守護天使---自らの高次の自己---について語ることが出来るようになる。アレイスター・クロウリーは聖守護天使との知識と会話を求める目的を持った儀式を弟子であるフランク・ベネットのために書いた。彼の指導は実に興味深い。彼は四方向の元素の召喚において、彼方まで<諸界への上昇>を行え、と指導しているのである。<召喚の野蛮な言葉>を発しながら、魔術師は地平線の彼方まで自らのアストラル体を飛ばすのである。四方の元素界へと飛翔した後、魔術師は今度は上空に向かって垂直に<諸界への上昇>を行うのである。彼の方法論は実に驚異的である。Voiceにあるが如く、”十字架の中心より発せられる創造の言葉は、真の意志の発動”なのである。

Voice
“回転する車輪の軸は、その揺るぎ無き不動性を持ち初めて意味を成す。均衡は力であり、平穏を齎す。核たる中心にこそ、真の光と力が宿る。流転する宇宙の軸とは、如何なるものか…?”

私は敢えてこう答えたい。「それは小宇宙にあっては、真の意志、均衡のとれた十字架の中心に輝く光である」と。

「もしノームに貪欲の手助けをさせるならば、最早ノームに命令を下しているのではなく、ノームが汝に命令を下すであろう。汝、山々や木々の純粋な創造物を悪用して自らの私腹を肥やし、黄金への渇望を満たそうとするや? 汝、「生ける炎」の霊達を汚して汝の恩讐を晴らそうとするや? 汝、「水」の「魂」の純潔を汚して自らの放蕩の欲望を満たそうとするや? 汝、「宵」の「そよ風」の「霊達」に強いて自らの愚考と気まぐれに奉仕させるや?」

魔術的な思考法と宇宙観によれば、我々の世界は数多くの素粒子の集合体ではなく、<火>、<水>、<風>、<地>の四原理により構成されているものとされる。魔術的な思考法が同時に心理学的(魂を主体とした)思考法とも合致し、物質を越えた秘教的知識を齎してくれるものであることを明らかにしたのはユングやトランス・パーソナル心理学者達、或いは魔術に心理学を導入したダイアン・フォーチュンイスラエル・リガルディー等の魂の航海者達であった。我々は童話や幻想文学の世界の中で、様々な元素たちの描写を見ることが出来る。サラマンダーは燃え盛る炎の中に蠢く赤い蜥蜴であり、シルフは風と共に舞踏する半透明な一群である。彼らは一つしかエレメントを持たない特別の存在である。他方、我々人間はプシュケーの内に四大原理たる四大元素を全て併せ持っている。我々の作業は四元素の十字を均衡させ、一つのエレメントが他のエレメントに比べ、不釣合いな程に突出してしまうことを制御することにある。上記の警句の中に現れる訓戒は<諸界の混同>についてのものである。魔法円の中で、借金苦で首の回らない無職の魔術師が必至になって地の霊に「金をもたらせ!」と命令を発している様子をご想像いただきたい。その様はなんとも滑稽たるものではあるが、人間はいざ窮地に追い込まれると藁にもすがりたくなるものなのである。「黄金の夜明け」団の文書は次のように我々に問いかける。「汝、山々や木々の純粋な創造物を悪用して自らの私腹を肥やし、黄金への渇望を満たそうとするや」、「もしノームに貪欲の手助けをさせるならば、最早ノームに命令を下しているのではなく、ノームが汝に命令を下すであろう」。現世利益を求めて魔術を行うことの是非については諸説ある。魔術の実践に実在的なフォースが介在するのであれば、人は魔術の力によって欲望を具現化させることに興味を持つかもしれない。それらは自らの責任においては全くの自由であると私は考える。しかし、欲望のみを先行させてはならない。我々はまず、「命令を下すに相応しい存在」となることを念頭に置かねばならないからだ。

Voice
“霊に邪悪なる欲望を押し付ければ、自らの心に大きな傷をつける行いをしていることと同じになってしまう。作業には愛を、そは信頼を生む。命令を下すにも正しき態度がある。謙虚さも研ぎ澄まされれば強さと知恵に変化するのだ”

元素霊とて、決して粗末に扱われるべきではない。彼らの言葉や態度は時として我々に知識と識見を齎してくれるからだ。その意味合いに於いて、彼らは我々と同じく宇宙の大切な構成員である。
以下に掲げた霊視の記録は、私自身のものである。ここでは、元素界とその働きを垣間見る一例として引用することにした。私が用いた方法はタットワとして世界中の魔術師達に用いられている幻視の技術である。


“前方に集中しつつ、神名と大天使名を振動させる。
私は水が流れ落ちる滝の前に立っていた。それ程大きな滝ではなく、流れ落ちる水の量が形成する滝壺と川の水量、幅もそれほど大きくはない。水は極めて美しい透明であり、光と結合する水面は眩しく輝いている。
私は流の淵にほんの少しだけ足をつけて立っている。冷たく湿った水は心地好い。
ここは人里離れた山の奥ではあるまいか…? 空は澄み渡り、周囲の自然は輝いている。
私は水の五芒星を切り、更に神名と大天使名を振動させた。
出現した案内人は、いつものように白い衣を纏った女性であった。その表情は美しいが、人間のような活力は感じられず、どこかしら儚さを有している。
例のごとく私はこの世界に対する説明を求めた。

「あなたの足元を見れば、すべては理解されるでしょう。あなたの体内に流れる血潮と同様に、それはすべて生命であり、輝きであり、結晶であるのですから。」

私は滝の方へと注意力を向けた。落下する水流は、滑らかな水のスクリーンを形成している。そのスクリーンの中に黒い人影が巨大に映し出されている。
影はまるで法衣を纏った魔術師のようである。案内人によると滝の向こう側には別の世界があり、そこには水の魔術師が住んでいるのだという。
私は意を決して滝の向こう側へと赴く決意を伝えた。案内人は、まったく安全な岩場の小道を指示し、私を導いてくれた。

滝の裏側は、冷たく薄嫌い巨大空間であった。空間そのものは地底の巨大湖とも呼べるような黒い水溜りに支配されていた。案内人は静かに語る。

「水はすべてに浸透し、移動していく存在ですから、この地下世界にも確かにそれは存在しているのです。」”

私は恐怖を覚えた。この世界に足を踏み入れたことを少なからず後悔し、滝の表側に帰りたいという衝動に駆られた。
私は五芒星を描き、神名を振動させ、光が顕現するよう、自らの意志を表明した。
やがて沈黙の地底湖が一気に活気づいた。巨大空間の天井が開き、太陽の光が差し込んだかと思うと湖から美しい噴水が幾本も噴き上がり、水中からは人魚のような元素霊達が無数に飛び出し、空間に弧を描きはじめた。
まるで真夜中から一転して真昼の世界が出現したようなものだ。元素霊達のめくるめくジャンプは、サーカスのパレードさながらに華やいだものであった。
案内人は、岩の階段を指し示し、私に登るように促した。私は臆することなくその階段を登った。

地上に出ると、そこは360度すべてが彼方まで続く大海原であった。私は前方の遥か彼方の水平線上に輝く球体を見た。それは紛れもなく夜明けの太陽であった。球体はゆっくりと上昇し、七色の光彩を海上に放った。
その美しすぎる光景は印象的であったが、更に印象的であったのが、案内人の語った「あの太陽は魔術師の魂です」という言葉だった。更に案内人はこうも説明してくれた。

「創造の夜明けとは即ち無限と同義なのです。彼方まで続くこの大海原にも<果て>というものは存在せず、純化された<水>とは即ち完全なのです。この世界は、その象徴であり、光と水が渾然一体となる様を表現しているのです。」

私は帰還のときが訪れたことを悟り、その旨を案内人に告げた。
今まで辿ってきた道を正確に逆行し、私は滝の表側へと出た。勿論、案内人には十分に礼を述べ、更なる探求を助けて欲しいと祈願した。
肉体への帰還はスムーズである。脳内は朦朧としていたが、集中力を振り絞って最後の追儺をおこなった”


この霊視の直後は、随分と混乱したヴィジョンを見てしまったという感覚でいっぱいになった。しかし、後々考えてみるに、この霊視より得られたある種の感覚と体験は実に興味深いものであることが認識された。私は魔法日記の補記に次のように記している。

“滝の表側が光の世界であったのに対して、滝の裏側は闇の世界であった。私は、平穏と美から暗がりの地下世界へと進み、最後には海上に光を投げかける<夜明けの太陽>を見た。その一連の流れには参入儀礼通過儀礼に特有のある種のドラマ性と定型化された<死と復活の神秘劇>が隠されている。滝の裏側には本当に<水>の魔術師がいたのであろうか? 或いは私自身が<水>の魔術師であったのかも知れない。”

魂の内部、無意識の下層領域に広がる元素界との接触は魔術師にある種の可能性と知識を与えてくれる。また<水>の精霊アンダインの上位には王であるニクサが、また支配者たるタルシスが存在していることを忘れてはならない。「地」の魔術を行おうとする者は現世に<黄金>を獲得することを求めるのだろうか? 或いは魂の発達の為に、元素霊達と協同することを望むのであろうか? なによりも大切なことは、なにものをも見下すことのない強さと許容に満ちた均衡する魂を確立することにある。何故ならば、それを確立した者こそが、元素の霊に命令を発するに相応しい存在であるからだ。

Voice
“すべての存在が光のもとに平等であれ!”

「真の宗教に分派なし。ゆえに汝、他人の神の名前を罵るなかれ」

宗教の多様性は民族の多様性であり、百花繚乱たる<聖>への個別的心象により多様化する根源的叡智の一群である。それらには共通する効能がある。即ち、人の心に崇拝と畏敬の念と愛情を引き起こすという効能である。神的崇拝の念はヌミノース体験により促進される。いうまでもなく崇拝者たる個人の魂はヌミノース体験により、それまでは単に暗示的なものでしかなかった神秘と恍惚そのものに呑み込まれることになる。故に真の宗教性とは思弁やイデオロギーとは対立する経験主義的観点からのみ理解されるものと思われる。魔術的カバリストは、全世界に分布する無数の神々を<生命の樹>の32のカテゴリーに従い分類し、普遍的なる我々の元型イメージの中に多くの類似的傾向を観察することであろう。それらの事実を殊更に強調する必要はない。何故ならそれは既に我々の基本的態度となっているからである。

Voice
“神々とは存在するエネルギーの諸相である。怒れる神々もいれば慈悲深き神々もいる。知恵に長けた神もいれば愚鈍なる神もいる。多様性が収束し、沈黙へと入ると唯一の神のみが存在するようになる。即ち、創造を発する万物の支配者たる姿無き神である。”

「真の宗教に分派なし」という言葉は理想化された虚言ではない。多くの神々を必要としたのは我々人類に他ならないのではないか?

Voice
“言葉や習慣、思想の中にも無限の類似性が存在するのではないか? 汝、如何なる方法によりて隣人と真の信頼を築きたるや?”

宗教間の論争---それは多くの戦争の原因になりはしなかったか? ---は他人の神を容認せず、自らの神のみを絶対とする態度により引き起こされるのだ。「もし汝ユピテルの名を罵れば、それ即ちIHVH を罵るものなり」。この警句の意味を理解できない者は存在しないであろう。他人の崇拝する神は必ずや<我れ>の中にも存在している。我々が魂の中心部へと潜航してゆき、眩い光の中心点に到達したならば、我々は以下の事実を確認するに違いない。即ち、「全ての神と女神は一つの神であるのだ」と。

Fini

☆  ☆  ☆  ☆

もし今の私が17年前の私の文章に添削を加えるならば、”均衡する十字架の中心に輝く光は、唯一の支配者である。ここにおいて始めて我々は、聖守護天使---自らの高次の自己---について語ることが出来るようになる。” の部分には赤ペンで特に大きなバッテンを入れるでしょう。何故ならば、現在の私は聖守護天使が<高次の自己>ではないことを知っているからです。『Voice』は、魔術の径に踏み込んでまだ比較的初期の頃に書いたものです。瞑想やアストラル・ヴィジョンのテクニックは後に大きく発達させることが出来ました。また当時の記述を読んでいると、その認識の未熟さを痛感します。それでも<大いなる技>へと挑む決意は未熟ながらも感じることができると思いました。

この後、私は更なる冒険を求めて、海外の二つの魔術団体の扉を叩きました。かつて参加し、切磋琢磨した団体には、どれも大きな影響を受けました。そして『Voice』を書いて10年近く経った2005年の暮れに私はA∴A∴に手紙を書き、入団を請願しました。そしてそこで<大いなる技>の昇華された無欠の径と巡り合ったのです。そこには、これまで自分が求めていたもの<全て>がありました。そして、今も<大いなる技>に従事することに無上の喜びを得ています。とはいえ、この自分にとっての終局の団に参加するまでに多くの年月が流れたのも事実です。この自戒の念から、皆さんにはこの日記の冒頭近くに書いた私の言葉を繰り返したいと思います。

“この挑戦は、魔術の径に踏み込んだ比較的初期の段階で明確に宣言することが重要です”

時間は有限であり、<大いなる技>にかかる膨大な時間を考えると、このメッセージの重要性は明らかだと思います。

Love is the law, love under will.