Deus est Home, Homo est Deus

Do what thou wilt shall be the whole of the Law.

アレイスター・クロウリーが受け取った謎に満ちた一冊の書物『法の書』 (Liber CCXX, Liber AL vel Legis )。 「東方聖堂騎士団」(Ordo Templi Orientis、以下OTO)はの法を正式に受け入れた世界で初めての魔術結社として進化してきましたが、『法の書』は未だ解明つくされていない稀代の預言書にして大凡魔術書なる範疇を越えた奇書であり続けています。<超人間>という不可解な定義をされたアイワスなる天使が伝えた一冊の書物は、その発生の由来すらも客観的確証に乏しく、我々はアレイスター・クロウリーが伝え聞いたとされる言葉を「己の魂と直感」という指標以外に何ら判断する術を持ちません。その真偽を問うことは、当然のことであり、全てを無防備に鵜呑みにすることは何ら推奨されません。クロウリーその人も、最初はこの書物の真偽を量りかねていたことは確実で、『霊視と幻聴』というエノキアン魔術の連続的な作業を経るまでは、その重要性を認識することは殆どありませんでした。

65枚の紙に筆記された220節のメッセージ。書物全体は三章に分割され、それぞれ「偉大なる母」である天空の女神ヌイト(第一章)、「偉大なる父」である有翼の光球ハディート(第二章)、「偉大なる子供」であるラー・ホール・クイト(第三章)の言葉を天使アイワスが代弁したものをクロウリーが筆記したといわれています。「65」は主アドナイ(Adonai)、聖守護天使の数字、そして光(L.V.X.)の数字です。また全体が220節からなることから『220の書』(Liber CCXX)とも呼ばれる稀有な魔道書、それが『法の書』です。クロウリー、そしてOTOが提唱するThelemaのエッセンスは下記の『法の書』の三つの言葉に集約されているといっても過言ではありません。

“汝の意志することを行え、それが法の全てとなろう”
“愛は法なり、意志の下の愛こそが”
“全ての男と全ての女は星である”

人間の全ての「意志」=Thelemaは、人間が原初から保有する「真の意志」(True Will)より派生しています。この抑圧された「真の意志」を自覚、あるいは想起し、自らの欲望と願望を超越した根源としての唯一の意志を見つけ出す行為こそが、Thelemeの実践者たるの務めとなります。この意志は明らかに愛による結合を希求しています。また『法の書』のエッセンスは「愛」そのものです。人間の内奥に秘められた「真の意志」とは、即ち愛による完全なる充足、超越的自己実現であり、超個的で根源たる「無」へと回帰することに他なりません。釈尊は、その概念を<涅槃>と呼んでいます。またその行為は、人間が数千年に渡り抑圧し続けてきた自己の神性を肯定し、秘められた神を開放する能動的行為に他なりません。全ての人間は無意識的に自己の神性を否定し、霊性を矮小化し、外在する偶像と自らの想像より派生した神の像=イメージを投影し続けてきました。Thelemaの体系は、それらの古き時代の因習から自らを脱却させるために、また古き時代の支配的圧政と呪縛から自己を解放するために、新しい時代の到来を肯定し、その時代を「ホルスのアイオン」(「子供の時代」)と呼んだのです。その教義の全ては『法の書』に書き記されています。そしてその教義はまたOTOの中心的テーマにもなっています。「全ての男と全ての女は星である」という言葉は、全ての人間が本質的に神であることを表明し、その中核的な神性は決して抑圧されるべきではないことを示唆しています。OTOでは、この信念を下記の言葉で断言します。

    “Deus est Home, Homo est Deus”

その意味は”神は人なり、人は神なり”であり、この言葉は世界と宇宙の観察者としての人間存在抜きには、神の存在そのものが意味を成さないという事実も伝えています。OTOは個と集団の為の「社会的・科学的啓明主義」の結社です。東洋の秘教は、どの時代においても、この事実を認識し、また実践することを推奨してきました。Thelemaは普遍的な教義であるため、東洋の学徒にも何らの違和感もなく受け入れることができます。しかし、数千年に渡る「父のアイオン」---従属的で不平等、且つ誤謬に充ちた科学観の支配下にあった西洋文明ではThelemaは尚一層、退廃的な空気を発散しています。我々、東洋の学徒は多分に西洋化された時代の流れにあっても、その宗教観においては、西洋とは比べようもない程に自由で寛容な発想を持つことができます。そして、その文化と宗教観はThelemaの原理を正しく咀嚼するためのバックグラウンドとなっています。

J.ダニエル・ガンサーは、「父のアイオン」の中核的な術式であるが、その意味を失うことはないにしても、既に一つ古い魔術の術式であることを指摘しました。この指摘に対する反論が数多あることは認識していますし、が達成の最高のシンボルであるとことを頑なに信じる人達を非難するつもりも毛頭ありません。は、その美しさと栄華を保ち続けています。ただしクロウリーが「深淵の試練」(Crossing the Abyss)と呼んだ最高の達成を夢物語と信じ、自らの神性を抑圧する人々にとってのみ、それは未だに最高の達成だと信じられていると私は考えています。

象徴的な言葉、そしてそれは更にかなり専門的な魔術用語を用いることにもなりますが、『法の書』が伝える新しい魔術の径は、下記のように旧来の魔術的世界観を変貌させました。

 「太陽の球、ティファレトに位置していたの術式と達人の山アビエグヌスにあった<達人の納骨所>は分断された。の術式はマルクトへと移行し、マルクトの四つの門を開く為の<聖守護天使>の降臨の秘儀へと変貌した。<達人の納骨所>は、深淵を越えビナーへと移動し、<聖者達の墓>となり、その地は<ピラミッドの都市>と呼ばれるに至った。そして新しい魔術の中核的術式は、ビナーへと至るための<消滅>の為の術式 = N.O.X.へと移行した」

あまりに専門的過ぎるため辟易されるかも知れませんが、これが私が従事しているGreat Work(大作業)の現在の地図です。OTOは、この新しいアイオンの受け皿であり、また新しいアイオンの救世主の<乗り物>です。“Deus est Home, Homo est Deus”は、正にこの新しいアイオンの新しい地図の為の前進の声明に他なりません。

罪なる言葉は「制限」。おお、男よ!彼女が意志するのならば汝の妻を拒むなかれ!おお、愛する者よ、汝が意志するのならば立ち去るがよい!分かれたるものを一体に出来る絆は愛以外に無い。その他すべては呪いなり。呪われよ!永劫に渡りて呪われよ!地獄ぞ。”
『法の書』第一章41節

一つの不断の鎖によって、その源へと連綿と続く秘教的な結社の師達は、声をひそめながら、アイオンの救世主のことを語ります。それは決して大っぴらに語られることはなく、J.ダニエル・ガンサーによればクロウリーその人も誤解を恐れ、殆ど言及することはなかったといいます。クロウリーですらも、この救世主の筆記者でしかありませんでした。救世主の名は、そのイニシャルでのみ知られています。V.V.V.V.V.が彼のイニシャルです。それはクロウリーが<神殿の首領>マジスター・テンプリの位階に到達して命名した彼の個人的な魔法名とは独立した<なにものか>です。その恩恵に与る為には、自ら進んで「一つの不断の鎖によって、その源へと連綿と続く秘教的な結社」の鎖に連なる必要があります。

自らの神性を肯定し、埋没した人間の可能性を掘り起こす為に、救世主はそのLogosを筆記者に送りました。昨年の9月、東京で連続講義を実施したオーストラリア・グランドロッジのグランドマスター兄弟Shivaは、OTOが新しい解放の為の倫理を教示する団であると定義しました。これはOTOが、人間に解放と啓明を教示する団であることを意味しています。先に引用した『法の書』の一文は、罪の言葉、概念、行動が不当なる「制限」であることを宣言しています。これは“Deus est Home, Homo est Deus”なる声明を抑圧してはならないという意味でもあります。

しかしながら一方では、この声明を安易に受け入れ、行動と制御をないがしろにしたまま、神を宣言する偽りのグル達がこの世に多く存在しているのも事実です。彼はいつも自滅と隣り合わせにあり、また我々自身が常に謙虚であったとしても、破滅は常に我々の隣にいることを忘れるわけにはいきません。そう、我々は常に狂気へと没落する危険性と共に径を歩まざるを得ないのです。それ故に軍神ラー・ホール・クイトは彼の戦術を明らかにします。

汝ら一つ島を選べ!それを要塞堅固にせよ!
戦いの兵器で肥しをやれ!わが戦争兵器をおまえにくれてやろう。
それと共に、汝ら人々を襲うべし。誰もおまえの行く手に立ちはだかる者はないであろう。
潜伏せよ!撤退!飛びかかれ!これこそが征服の戦闘の法なり。さすれば、わが崇拝者はわが秘密の宮を取り囲むであろう
。”
『法の書』第三章4-9節

”神は人なり、人は神なり”は、Great Workの重大な声明にして行動指針です。Abrahadabraたるラー・ホール・クイトの<報酬>があなたに与えられんことを。

Love is the law, love under will.