Who calls us Thelemites

Do what thou wilt shall be the whole of the Law.

“ 法の言葉はθελημαなり。われらをセレマイト(Thelemites)と呼ぶ者、彼がその言葉を綿密に調べるならば、間違いを犯すことはないであろう。そこには隠者、愛する者、地上の人間、という三位階があるからである。汝の意志することを行え、それが法の全てとなろう。”
『法の書』第一章39-40節

Thelemaはギリシャ語で <意志> を意味し、そのゲマトリア数値は93です。93はクロウリーの魔術哲学の中核を担う数字で、 <愛> を表すAgapeも同じく93という数値を有しています。『法の書』と一体になっている教義、正しくは「法」は と呼ばれています。ただThelemaが正しく何を意味し、またThelemite (セレマイト) がどのような人を指しているかについては、今一つ釈然としない人も多いのではないかと思います。Thelemaという単語は正しく <意志> を意味していますが、現代魔術のコンテキストの中に登場すると極めて多義的で曖昧な言葉として取り扱われる場合が少なくありません。Thelemaという単語は、その意味と連結する複数のコンセプトの仮面となり、日々その意味を拡充しているように思えてなりません。またThelemite、即ち を受け入れた者は、如何なる意味においてThelemiteと呼ばれるのでしょうか? ここではその意味するところについて少し考察してみたいと思います。

Thelemaという意味深な単語から即座に二つの異なる観念に基づく定義が表出します。一つ目は<意志>、あるいは<真の意志>に基づいた魔術体系としてのThelemaです。この場合、Golden Dawnに代表されるヘルメス学的実践カバラ体系やChaos Magicと呼ばれる自由度が高く独自性を重んじるプラグマティックな実践魔術体系同様、 も広義の意味での「魔術」の一ジャンルとして扱われます。特にGolden Dawnの発展系もしくは、東洋のシステムと習合した亜種として、或いは新アイオンを宣言し、独自の象徴体系を有する(Golden Dawnに比して)新しい魔術の体系として捉えられます。この意味においてThelemaは「主にアレイスター・クロウリーが確立した新アイオンの実践魔術 及び <真の意志> の発見と行使を目的とした密教体系」としてMagic(k)の一カテゴリーを形成することになります。そこでは というコンセプトを中核として、Thelemaと魔術はほぼイコールの等式で連結されます。

もう一つは、「法の言葉」としてのThelemaを吟味・咀嚼し、アレイスター・クロウリーが伝えた『法の書』の教義、即ち を実践哲学として捉えるアプローチから導き出される定義です。この場合、Thelemaは主にライフスタイルとして理解され、日常世界の中で実践されるべき哲学的命題となります。即ち「人間の本性を解体し、<真の意志> の肯定を基礎とする能動的ライフスタイルに依拠する実践哲学の体系」ということになります。

それらとは別にアレイスター・クロウリーが継続的に主張した宗教としてのThelemaにも考察を加えるべきであると思われます。Thelemaが宗教であるという主張は、宗教色の希薄な日本では殊更に禁忌の対象になり得る捉え方です。日本では黒船来航以降、Religionに対応する的確な訳語が見つけられず、本来は仏教用語であった「宗の教え」たる「宗教」という訳語をReligionにあてました。これは本来、ほぼキリスト教を指すReligionという概念にはそぐわない訳語でした。キリスト教学者ラクタンチウスの有力な説によれば、Religionの語源であるReligioは、「再び」を意味するReと「結びつける」を意味するLig が結合された言葉です。従ってReligioには“人を再び神へと結びつける”という意味があります。正しくは、神に背いた罪深き人間が、主イエス・キリスト磔刑を媒介として罪を赦され、再び神と結びつくということです。とはいえ、『法の書』を中心とした教義から考えると、上記の贖罪の概念は”人は神の僕であり、再び結びつくその在りようは、魂の外部に存在する人格神たる唯一神への絶対帰依と服従”ということに他なりません。これが <神人隔絶教> の存在様式であることは云うまでもありません。他方、Religionによって人が神と再び結びつくことは、Thelemaの法によっても否定されるものではありません。しかしながら、Thelemitesは神に背いた罪深き人間といえども、高圧的で存在の不確かな唯一の絶対神なるものをいかなる意味においても媒介とする必要はないと考えます。その理由は、Thelemaは <神人隔絶教> を唾棄した <神人合一教> に他ならないからです。その信条は下記の三つの『法の書』からの文章によって導き出されます。

“汝の意志することを行え、それが法の全てとなろう”
“愛は法なり、意志の下の愛こそが”
“全ての男と全ての女は星である”

確かにThelemaは宗教です。ただし、Religionの在り方としてはキリスト教に代表される一神教の教義とは似ても似つかないもの、有り体に言えば真逆の信条に立脚するReligionなのです。それでも尚、アレイスター・クロウリーは、Religionという言葉にこだわり続けました。ここは正に日本人に一番理解し難い部分です。クロウリーは、世に宗教と呼ばれるものの社会的影響度を誰よりも熟知し、またそれを欲していたのは確かなことです。彼がO.T.O.の中核的儀式として「グノーシスのミサ」を作成した意図も人々の宗教的衝動を充足させる為でしたし、ヌミノースを喚起するためには壮麗な儀式的手法が一番有効であることを確信していました。「グノーシスのミサ」が世界各地で定期的に行われているO.T.O.の現況を鑑みるに、Thelema = Religion は海外では比較的普通に受け入れられていると考えて問題ありません。この宗教的観点からのThelemaの定義を、とりあえず「”我の中に神にあらざるものなし”、という信条に基づいた神人合一教としての宗教体系」としておきましょう。

ではこれまでの三つの定義を一応ここで列挙してみましょう。

1. 主にアレイスター・クロウリーが確立した新アイオンの実践魔術 及び <真の意志> の発見と行使を目的とした密教体系 (西洋魔術全体の中の一カテゴリーとして)

2. 人間の本性を解体し、<真の意志> の肯定を基礎とする能動的ライフスタイルに依拠する実践哲学の体系 (実践的哲学、思惟のシステムとして)

3. ”我の中に神にあらざるものなし”、という信条に基づいた神人合一教としての宗教体系 (新しい信仰の形、神人隔絶教のアンチテーゼとしての実践宗教として)

これら三つの定義は、どれが正しくどれが間違っているというような優劣を以て語られるべきではありません。また厳密にいうと一つの定義のみを受け入れ、他の二つの定義を否定するという人は極めて稀であり、殆どの場合は上記の三つの定義を割合こそ違えども共存させているというのが現実です。ただ日本では、一般的に1.の定義がより多く受け入れられている傾向にあります。またO.T.O. Japanの内部では2.の定義に賛同する人が多いようにも見受けられます。3.の定義については少なくとも日本では全く人気がありません。それは所謂 新興宗教という言葉に多くの日本人がアレルギーを持っているからだと端的に推測されます。

さて上記の定義に基づいて、 を受け入れたThelemite (セレマイト) の解釈にも三つのベーシック・パターンがあると考えられます。<魔術の一カテゴリー> としてのThelemaという定義に基づくと イコール という解釈が生まれます。彼は日々定期的に日拝し、スター・ルビーやスター・サファイヤ、またはヴェル・レグリといった主要儀式を実施します。またアーサナやプラーナヤーマのようなラジャ・ヨガの基礎訓練を行います。彼はその訓練課程によって を実践魔術師の観点から理解しようと努めます。
二番目の定義からThelemaの哲学的側面を日々考察し、その思惟に基づいて生活する実践スタイルを堅持する者が ということになります。即ち、 を真摯に受け入れた者が即 たり得るのです。最後の定義からは、少なくともThelemaという宗教を信仰し帰依する者が となります。この場合、云うまでもなく帰依の対象は人格神でもなく、偶像でもなく、また預言者アレイスター・クロウリーでもありません。それは唯一自分自身の <真の意志> のみということになります。

上記三つの定義は換言すると <労働者> (定義1.)、<兵士>(定義2.)、<聖職者> (定義3.)の実践態度です。冒頭に引用した『法の書』の言葉を想起してみて下さい。<労働者> とは即ち<地上の人間 the man of Earth>。<兵士> とは即ち<愛する者 the Lover>。<聖職者> とは即ち <隠者 the Hermit>。Thelemaの聖なる団の三位階となります。さて定義2. 即ち実践的哲学者はどうして <兵士> であり、また <愛する者> となるのでしょうか? それはこの世界があらゆる相対性の上に成り立ち、あらゆる二者は愛の為に分裂させられているからです。

“ 無なるもの、星々の微かなる幻想的な光が囁き、しかして二者。何故なら、われは愛の為に分裂させられたのだ。結合の機が熟する時の為に。”
『法の書』第一章29-30節

“ 罪なる言葉は「制限」。おお、男よ!彼女が意志するのならば汝の妻を拒むなかれ!おお、愛する者よ、汝が意志するのならば立ち去るがよい!分かれたるものを一体に出来る絆は愛以外に無い。その他すべては呪いなり。呪われよ!永劫に渡りて呪われよ!地獄ぞ。”
『法の書』第一章41節

「人生」という壮大なカリキュラムの中では、愛による統合という間断なき戦闘を余儀なくされます。Thelema的哲学的思惟は、Thelemiteの人生の径における血肉に他なりません。彼は <愛する者> として薔薇と十字架を結合させなければならないのです。

三つの分離した、しかしながら相互に有機的に結び付いたThelemiteとしての実践態度から狭義のThelemiteの定義が演繹されます。それは「大いなる作業 Great Workに従事する者」という定義です。またThelemaそのものも「大いなる作業」の壮大な観念と等式で結ばれる第四の定義によって理解されることになります。Thelemaという言葉の多義性は、おそらく「大いなる作業」という確たる「行為」に収斂され得るのです。これはO.T.O.とA∴A∴の双方を貫く不動の真実と断言してもよいでしょう。

O.T.O.の位階はこの三つの位階 <隠者>、<愛する者>、<地上の人間> によって構成されています (O.T.O. JapanのサイトからダウンロードできるPDFファイルでそれら位階システムについて詳説しています)。興味深いことにクロウリーは、1920年代に未だ実験的な団であった「セレマイト団 (The Order Thelemites)」について弟子のトーマス・ウィンドラム (兄弟Semper Peratus) に団の「規約」を送付しています。その記述によると「セレマイト団」を構成する三つの位階 <隠者>、<愛する者>、<地上の人間> は順にA∴A∴のマジスター(8=3)、アデプト(5=6)、ジェレイター(2=9)に相当します。これはある意味O.T.O.とA∴A∴という異なる二つのThelema結社を有機的に連結させようとしたクロウリーの試みであったと思われます。ただし、このプロジェクトは程なく頓挫します。

Thelemaは <意志> を意味する単一の言葉であると同時にそこから派生する <隠者>、<愛する者>、<地上の人間> という三つの態度を包摂し、また単一にして最大の動因である「大いなる作業」の完成という人間の <真の意志> を内含しています。Thelemiteは、その <法> を受け入れ <哲学者の石> の完成を目指す超越主義者 (transcendentalist)です。勿論、一般的にはより普遍的な意味でThelemiteという言葉は使用されています。それこそ、O.T.O.の参入者 = Thelemite というように (勿論、これは安易な発想です)。さて最初に私が問いかけた疑問、” Thelemite、即ち を受け入れた者は、如何なる意味においてThelemiteと呼ばれるのか? ” について明確で万人が納得するような良い定義はないものでしょうか? 広義の意味では、何度も繰り返しますが を受け入れ、『法の書』を受け入れた者は即Thelemite となります。それ以上の定義は不必要であるという意見もあることでしょう。ただしこれまで考察してきたようにThelemaという単語は、その魔術的、哲学的、宗教的諸側面を包摂する多義的解釈を許容し得ると考えられます。それは『法の書』の教義により敷衍され帰納されるがゆえです。

しかしここで一つの疑問が湧き起こります。人はどのような具体的行為を以て「Thelemaの法を受け入れた」と宣言し得るのでしょうか? 『法の書』に数度目を通して、漠然とそのアウトラインが理解できた場面でしょうか? O.T.O.の最初の位階であるMinervalの参入儀式を受けた後でしょうか? それとも『法の書』を1000回熟読し、10年間瞑想した後でしょうか? いずれにしてもThelemiteは、他者から認定してもらう認可システムに基づくものではなく、自分自身が熱望と共に高らかに宣言する魔術的、哲学的、宗教的悟性に基づいた宣誓によって誕生します。勿論、O.T.O.への参入によって受動的にThelemiteが誕生するわけでは全くありません。これは <星> である個々の志願者自身に課された命題に他なりません。その意味ではThelemitesとは「Thelemaの法を周到な理解と共に受け入れたことを宣言した者」と定義できるでしょう。そして を受け入れることは決して簡単なことではありません。再び冒頭に引用した『法の書』からの言葉を引用しつつ今回の日記を締めくくりたいと思います。

“ 法の言葉はθελημαなり。われらをセレマイト(Thelemites)と呼ぶ者、彼がその言葉を綿密に調べるならば、間違いを犯すことはないであろう。そこには隠者、愛する者、地上の人間、という三位階があるからである。汝の意志することを行え、それが法の全てとなろう。”

Love is the law, love under will.