死について

HierosPhoenix2007-02-04

Do what thou wilt shall be the whole of the Law.

"われはあらゆる人間の心の内、そしてあらゆる星の中心核にて燃える炎なり。われは生命にして生命の与え手なり。にもかかわらず、結果われに精通する事は死に精通する事となる"
  日本語版『法の書』第2章6節 Sr. Raven

然るに死の概念は古くから、劇的な変容の為の触媒とされてきました。変容というキーワードから我々はタナトスとは一つの転生、あるいは転生への孵化であることを理解します。死とは新たなる生への憧憬の具現であり、不可避の神秘性なのです。死とは肉体を蝕む黒い影としてよりも、一点の光明を齎す恍惚と共にある瞬間的拘束・活動の停止のことなのです。

『法の書』の第二章では無限小にして星(クハブス)の核であるハディートが叫びます。

"ああ!ああ!死よ!死よ! 汝は死を切望するであろう。死は禁じられている、おお人間よ、汝らにとっては"
  日本語版『法の書』第2章73節 Sr. Raven

"死は全ての王冠なり。強健たれ! 持ちこたえよ! 汝の頭を上げよ! さほどに深く呼吸せずともよい--死ね!"
  『106の書-死について』

ハディートは天空の女神ヌイトとの結合を熱望し、虚無への溶解を希求する。
ハディートとは私たちの中心、核であり「生命の与え手」であると同時に「死の伝道者」なのです。

例えば、止むことのない異性というシジルを追い求める欲望があります。それは永久への扉というよりは、全てを飲み込むブラック・ホールです。このような彼岸への憧憬が全ての欲望の根源であるとして、果たして男は真に女の「肉体」を求めているのでしょうか?

このような根源的な欲望に光明を与える究極のシジル(Supreme Sigil)が生まれてこなければなりません。それは自動筆記によって無意識から自我に拾われ、ふたたび本来の住居へと回帰していくのです(Great Cycle)。このようなサイクルの機が熟してさえいれば、Self-loveの細波が怒涛の恍惚となって中間性原理へとさらって行ってくれるでしょう。これこそが神秘主義であり、恍惚の心理学の基盤なのです。はたして原始の、あるいは普遍的な女とは、そのような究極のシジルの向こう側にいて、いつでも我々の抱擁を待ち侘びているのでしょうか?

視覚野に捉えられたあらゆる対象物はシンボルとなります。そして人は常に「永久なる自由のシンボル」、「解放のヒエログリフ」を求め彷徨っています。とはいえ、彼は自分の外部には決してそのような究極のシジルが存在しないことを知るのす。これこそが「自己-愛」の発見であるといえます。

ヌイトとハディートの結合とは、星たる人間のDNAに仕込まれた時限爆弾なのです。いずれそのときが来れば、宇宙は大爆発を起こし、我らを新たなる死の世界へと誘ってくれることでしょう。

Love is the law, love under will.