As Brothers fight ye!

HierosPhoenix2007-09-16

Do what thou wilt shall be the whole of the Law.

 生存において私たちは自身の中に何を見出すのでしょうか?舞踏、絵画、詩作、文筆、演劇による創造性とエクスタシー、相反物の和合、己の肉体の限界への挑戦とその克服から得られるエクスタシー。人間は常に表現不可能な、しかし呈しがたい快楽欲求に衝き動かされ生きています。今、何をすべきか? 何が自分を満たしてくれるのか?自分はどこに向かっているのか? またその動機は? 超然とした恍惚がどこかにあることを知りながら、それを得ることなく、またその真価に気付くことなく生きているのが人間存在です。それでも尚、人間はあらゆる形態の創作表現に没頭するようプログラミングされています。人間はすべからく、現状の形態から異なる形態への昇華を希求しているように私には思えます。真の自己表現とは個の全体性の獲得であり、再びエデンの園へと回帰することを意味します。貪欲で好戦的な人間、怠惰で捨て身勝ちな人間、平凡で無機質な人間、しかし全ての人間は共通し通低する「生」の原理に打ち震えています。人間に畏怖の念を与え、半ば強迫観念的に昇華を求めるこの原動力こそが魔術のエネルギー、太古より眠り続ける竜の力です。

 「生」の原理は同時に「性」の原理であり、人間は全くの他者(人間とは限らない)と結合することによって「全」を求める聖者にして愚者なのです。クロウリーはその概念をIO PANとして表現しました。屹立する男根 = I, と大いなる女陰 = O が結合し、PAN = 「全」を召喚するのです。0=2はもう一つの魔術公式です。まずは生命そのものを鼓舞する「全」 =「無」への回帰願望を視野に据えることです。そうすれば真の意志の朧げな輪郭が見えてくるでしょう。

 ここで人間は岐路に立つことになります。現世を漫然と暮らし、来世が来るのを静かに待つか、今すぐに戦闘を開始するかのどちらかです。内在する個的な神 ラ・ホール・クイトは人間に戦闘を求めます。彼は"意志することを為す以外に法はなし" と叫び "同胞として戦え、汝ら!(As Brothers fight ye!)" と軍隊を鼓舞します。この戦いについて『法の書』の解説の中でクロウリーはこう記しています。「戦え!悪意抜きに紳士の如く戦うのだ。何故ならば戦闘とは世界中で最善のゲームなのだから。そして二番目にくるものは愛である!」

 つまり戦略と戦術を駆使してゲームの達人として戦闘に従事するのです。戦闘の為に他者を傷付けてはならず、また他者に過剰に干渉することも許されません。このゲームは一種の頭脳戦なのです。ラ・ホール・クイトの加護の下、全身全霊で戦うセレマイトは牧神パンとともに踊り狂いながら自己を拘束するあらゆる罪を撃破していくのです。錬金術の古の用語である「大いなる業」がその舞台となるでしょう。実際の戦闘はもの静かで知的でそれでありながら、武人も逃げ出す過激なものなのです。まずはそれを楽しむことです。牧神パンは、きっとその手助けをしてくれるに違いありません。

Love is the law, love under will.