Initiation in the AEon of the Child 2

Do what thou wilt shall be the whole of the Law.

今から大凡2000年前の出来事です。一人のユダヤ人の若者の身に数奇な運命が待ち構えていました。彼の名は大工であるヨセフの子であることから、”ヨセフの息子イヘィシュア”、イヘィシュア・ベン・ヨセフです。彼はエルサレムの北方ガラリア地方のナザレと呼ばれる田舎町で生まれたユダヤ人でした。幼い頃から知恵に満ち、ユダヤの神の恵みに愛された少年は、父ヨセフと母マリアの間に生まれた長男として、父から大工の技巧を学び成長しました。彼はトーラーの教えに従順で、当時のユダヤ人のご多分に漏れず敬虔なユダヤ教徒として育っていったのです。やがて彼はヨルダン川で、聖者ヨハネから洗礼を受け、荒野の砂漠で断食修業を重ね、人ならぬ特異な力と神への知恵に充たされていったのです。彼には12人の弟子達がおり、その人数はイスラエルの12部族に当てはめられたものでした。やがて彼は巡回伝道師として、ガラリアの地で布教を開始します。彼はまず類まれなるヒーラーで、あらゆる病人を癒し、また悪魔に取りつかれた哀れな人々に悪魔祓いを施します。彼の力は死者すらも蘇らせることが出来たのです(ただし、客観的証拠はゼロ)。やがて彼は救世主として崇められるようになります。彼は貧しいながらも、慈愛に満ちた若者で、当時のユダヤ社会では非主流となるパリサイ派ユダヤ教徒でした。その立場から、エルサレムでの神事一切を取り仕切っていたユダヤ教の主流派サドカイ派を非難、やがて敵対するようになります。サドカイ派は神殿で毎日行われる犠牲祭儀を取り仕切り聖書(旧約)に関しては「モーゼ五書」のみを尊び、どちらかというと保守的で、霊魂の不滅性や死者の復活、来生での裁き、そして天使の存在すらも否定していました。対してイヘィシュアの所属するパリサイ派は、より厳格で、ユダヤの宗教的伝統に忠実でした。また学びに対しても貪欲で、「モーゼ五書」は勿論のこと、口伝律法や預言書をも重視していた一派でした。しかし、イヘィシュアはバリサイ派の中でもガラリア地区で盛んだったハシディームと呼ばれる敬虔派の思想により大きな影響を受けていたようです。この派では清貧の美徳を重んじ、また預言を重視し、更には宗教における女性の役割を重視していたのです。やがてイヘィシュアは、自分こそが救世主であるという概念を気に入るようになったのです。そして彼は後に”救世主イヘィシュア”を意味するイエス・キリストという名前で西洋社会における宗教全体を席巻していくことになるのです。しかし、生前の彼にはそんなことは全く想像も及びませんでしたが。

不運な事件が発生しました。ユダヤの重要なお祭りである過越祭に参加するため12人の弟子達とともにエルサレム入りしていた彼は、何が気に入らなかったのかは分かりませんが、神殿の外庭でごく小さな暴動を起こし逮捕されてしまうのです。彼はサドカイ派の神殿当局から許可を得ていた両替屋や、犠牲として捧げるための鳩を売ることを生業にしている商人らの屋台をひっくり返す暴挙に出たのです。エルサレムは彼の説教活動には格好の場所でした。実際、聖都エルサレムでの彼の説教は好評を博していたのです。彼は、空腹でいらいらしていたのか、神の神殿の外庭で平和に商売していた人々を罵り、やがて怒り心頭となって、ついに暴挙に出たのです。彼が本当に気に入らなかったのは神殿当局---彼からすれば敬虔さの欠片もないサドカイ派の司祭たちであったことは想像に難くないわけですが、彼はその怒りの矛先を商売人たちに向けてしまったのです。もとよりイヘィシュアのことを好ましく考えていなかったサドカイ派の司祭たちは、「(偽)預言者」を標榜し、民に邪な考えを吹聴したという罪で、彼に死罪を求刑したのです。イヘィシュアの裁判は、ユダヤ法廷、そしてエルサレムの地を統治していた大ローマ帝国の総督ピラトの下で開かれました。大司祭は彼に尋ねます。「お前は誉むべき方の子、メシアなのか?」と。イヘィシュアは静かに答えます。「私がそれだ。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見るであろう」。彼の為に開廷されたユダヤ法廷の裁判は、最初から彼を死罪にする目的のみで開かれたと云えます。これにはピラト提督は困惑します。どう考えても、ローマの法律に照らし合わせてみても彼は死罪という極刑に値する罪を犯したとは考えられなかったからです。ただし、サドカイ派の司祭たちはこぞってピラトに駆け寄って、イヘィシュア死罪の嘆願を連呼したのです。この事件こそが、後のユダヤ人差別、あるいはホロコーストに代表されるユダヤ人大虐殺に繋がっていくと考えることができます。日本では、とても想像できないことですが、神の子たるイエス・キリストを殺した罪は、膨大な怨嗟となって、恐らく今もユダヤ人への差別へと繋がっているのです。2000年前の恨みが晴れるのはいつでしょうか? サドカイ派の司祭たちに根負けしたピラト提督はイヘィシュアに死罪を申し付けます。それは当時のユダヤには存在しなかった十字架刑という残酷な方法での処刑でした。

十字架刑による死罪、その死へと至る道は想像を絶する痛みと苦しみですが、実際は窒息によってこと切れることになります。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」「はっきり言っておくが、お前は今日わたしと一緒に楽園にいる」「わたしは渇く」「成し遂げられた」。そして彼の命は絶たれます。イヘィシュアは死の三日後に復活したといわれています。彼の死後、ナザレ派と呼ばれた彼の宗派は、おぞましい虐待に苦しめられることになります。そして、そんな虐待を加えていた急先鋒であったユダヤ教徒パウロの改宗によって、キリスト教は、そしてイヘィシュア・ベン・ヨセフは、生まれ変わることになるのです。使徒パウロは生前のイヘィシュアに会ったことすらありませんでしたが、彼は大きな確信を得たのです。即ち、「イエス・キリストは人々の大きな罪を贖う為に、自ら進んで十字架にかけられたのだ」と。ここに自己犠牲の美徳と贖罪の秘蹟が生まれたのです。パウロは主イエス・キリストを讃え、彼の教えを広めることに命を懸け、東奔西走する人生を送ります。ある意味では、パウロこそがキリスト教の生みの親であるといってもいいでしょう。熱狂的なキリスト教徒であったパウロは、イエス・キリストが肉体としてこの世に復活し、キリストを王とする神の王国が訪れることを心底信じたまま死んでいきました。2000年経過した今も、神の王国が訪れる兆しなどまったくなく、また今後何千年待ちわびたところで聖書に預言されたイエス・キリスト千年王国などやってこないことは誰がみても明らかです。一体、何が間違っていたのでしょうか? 今でも世界中に厳格なキリスト教原理主義者、福音主義派、再生派が数多くいます。クロウリーが生まれた家も厳格なキリスト教原理主義プリマス・ブレスレンを信仰する家でした。彼らはバウロの呪縛の犠牲者かも知れません。何故なら彼らもまた聖書の中の一語一句に神の栄光が宿り、またイエス・キリスト千年王国が近い将来到来すると「真剣」に信じているのですから。アメリカ合衆国では、キリスト教徒でなくては絶対に大統領になれないのが現実です。彼らは膨大な伝道主義者達の多数票抜きには当選できないのですから。国家元首が提唱する「中絶反対、同性愛反対」のアピールは明らかに福音主義者(エヴァンジェリスト)達に対する媚売りになっています。一方、旧約も新約も多数の人々が数百年単位で改竄に改竄を重ねた人間の手による人間のための書物であることが聖書に対する批評的研究で次々に明らかになってきています。既にオリジナル・テキスト(勿論、人間が書いた)は散逸していて、各々都合の良い追記が行われていたり、また逆に都合の悪い記述が削除されてしまっているのです。そして、なによりも筋金入りのユダヤ敬虔派だったイヘィシュアは、自分の意に反したキリスト教なる新興宗教が世界を席巻しようとは微塵も思っていなかったことでしょう(反ユダヤなど彼にとってはサタンの所業以外の何ものでもありません!)。そして彼の死そのものは、彼自身も想像していなかった突発的な事故だったに違いありません。西洋の秘教伝統の中では、キリストの贖罪にまつわる自己犠牲の概念、死と復活の秘儀にまつわる秘儀参入の象徴で溢れ返っています。この術式は、「死して蘇る神」の術式として定式化され、一般的に「L.V.X.の術式」として知られています。ただし、ここで私たちは問わなければなりません。一体、誰のための自己犠牲なのだろうか?(悩める他者のため?) そもそも美化されたイエス・キリストの神話から現代のオカルティスト達はどのような恩恵を受けることができるのだろうか? また「死して蘇る」神の術式とは、達成可能な魔術的フォーミュラとして果たして最高位のものなのだろうか?

Guntherは、現在のアイオンの魔術的術式の中核が「L.V.X.の術式」から「N.O.X.の術式」へと移行したことを強調します。ではN.O.X.の術式とはどんな術式なのでしょうか? Guntherは_Initiation in the Aeon if the Child_の有益な用語解説の中で、その術式を下記のように定義しています。

ラテン語「夜」を意味するNOXの頭文字に基づいた象徴的術式。N.O.X.の三文字は「Panの夜」を示し、またホルスのアイオンの中核的術式である”(p204)

クロウリーはN.O.X.の三文字にヘブル文字のヌン、アイン、ツァダイを当てはめています。つまり、ヌン:数値50、アイン:数値70、ツァダイ:数値90で、その合計は210になります。実はこの数値210がN.O.X.の術式の様態を如実に反映しています。それは「2」:対立する二者、あるいは相反物から「1」:一者への結合、そして「0」:「無」への回帰です。2→1→0へと移行する数字の推移は、そのもの二元論的知覚に拘束された人間が、統一を経て原初たる「無」へと回帰するプロセスを表しているのです。Pan牧神は、クロウリーの魔術体系の中で「全」即ち「無」と同義です。「Panの夜」とは、人間を超越し、また神と人間の間を隔てている「深淵(Abyss)」を超えた魔術師が到達する神秘的境地を表しています。N.O.X.の術式は、西洋魔術の中ではクロウリーが初めて定義した概念であり、深淵を超えることはイエス・キリストに代表される「父のアイオン」---オシリスのアイオンでは全くの想定外とされていたのです(人間が神になるという概念は、東洋ではごくごくありふれたものであるのに対して、西洋では禁忌とされていた危険な思想で時代によっては死罪が授与されます!)。このため、従来の西洋の魔術団体には、この深淵を超える位階到達という概念は、単に理論上のものであったに過ぎません。そう、旧来の西洋魔術の修業体系・枠組みには「深淵を超える」という概念は存在しなかったのです。何故なら修業による達成で5=6小達人となり、太陽の球=ティファレトに到達した魔術師は「キリスト魂」へと到達したことになるので、それ以上の高みへは進めないと彼らは謙虚に考えたからです。しかし、ここでまた考えてみなければなりません。キリストとはいったい誰のことを指しているのでしょうか?。ユダヤ教徒イヘィシュアのことでしょうか、それとも救世主イエスでしょうか? その謙虚さは、逆説的にイエス・キリストを過少評価するものです。この概念は明らかに間違っています。

この「深淵を超える」作業にクロウリーが本格的に挑んだのは1909年、アフリカのアルジェリアの砂漠において実施された連続した魔術作業、後に『霊視と幻聴』と名付けられた作業においてでした。深淵を超える際に、魔術師を妨害する大悪魔コロンゾン---彼はその悪魔との格闘に挑み、そしてコロンゾンを撃破したのです。このコロンゾンと呼ばれる悪魔は、拡散と知識の権化で、一つのことに集中したり、また「沈黙」することを極端に恐れます。この特徴はカバラの「生命の樹」で深淵に位置するとされている偽りのセフィロト「ダース」の性質と一致しています。ダースの意味は「知識」で、古きアイオンではコクマーとビナーの結合たる「知識」と呼ばれていました。しかし、実際のダースは「偽りの王冠」とよばれる「知性(ルアク)」の頂点として深淵上に存在しています。つまりコロンゾン=拡散の悪魔は、とめどもない「知識の洪水」なのです。彼は片時もそのお喋りを止めることが出来ません。知識の洪水によって、自らを充たさなければ、彼の存在自身が宇宙から抹消されてしまうからです。深淵を超える魔術師は、唯一「沈黙」することによってのみ、コロンゾンを追儺し、自我を捨て去ることが出来ます。クロウリーの体系では、この作業を象徴的に「ババロンの杯へ全ての血を注ぐ」行為として定義しています。「全ての血をそそぐ」、つまり全ての個性、個我、属性と知識を捨て去り、「無」へと回帰しようとする行為です。この行為は、全ての人々によって強く抑圧されている、そしてそれが故に人間にとって大きな試練となるものです。

さてGuntherは、死の問題について一石を投じます。曰く、

・神秘なる死は既に最高の達成を示すものではない
・迷信や堕落した第二の死の教義は、無効となった

Guntherは、ここで新たな論点を開陳します。彼の主張はこうです。「L.V.X.の術式」は、既に達人たちの秘儀参入の聖なる山(薔薇十字伝統ではこの山はアビエグヌスと呼ばれています)の納骨所を開く力を持たず、マルクトの四つの門=聖なる山の麓の四つの門を開く術式へ変化した、と。また彼は「L.V.X.の術式」は既にティファレトの術式ではなく、マルクトの術式に変化したと明言します。これには解説が必要でしょう。旧来のアイオンでは「L.V.X.の術式」は「死して蘇る神」の秘儀、つまり「黄金の夜明け」団の5=6小達人の参入儀礼の重要なキーでした。儀式を受ける小達人候補は象徴的に死に、また自らを薔薇十字団の始祖たる伝説的人物ロジクリスチャン・ローゼンクロイツに見立てて、彼が120年間眠り続けた地下納骨所から復活してくるのです。その根底にあるコンセプトは、磔刑により死んだイエス・キリストが三日後に墓所から復活する物語に由来しています。Guntherは、この「儀礼的死と復活」の達成とその有効性を否定します。彼はクロウリーが作成したA∴A∴のニオファイト入門儀礼である『門の書』(その自己参入版が有名な『ピラミッドの書』です)の奥深い象徴解析から、「L.V.X.」の力が開く対象は達人の納骨所ではなく、四分割されたマルクトの門、即ち「祈りの門」、「正義の門」、「死の影の門」、「涙の門」であると述べます。「L.V.X.」=光の数値はゲマトリア変換すると65であり、その数値はアドナイとして知られる聖守護天使の数値と等価です(L.V.X.=65=ADNI)。また『門の書』に与えられた書物の数値は671であり、これはアドナイを構成するヘブル文字の四文字をフルスペリングした際に得られる数値と等価です。即ち、「L.V.X.」の術式は「生命の樹」の最下層である物質の門たるマルクトに、聖守護天使を降臨させる為の光(L.V.X.)による召喚の術式へと形を変えたと彼は解釈しているのです。旧来のアイオンの魔術教義では、聖守護天使がティファレト以下の世界に顕現することはありませんでした。しかし、GuntherはA∴A∴においてはそれは違うと述べます。彼は、聖守護天使は、人間の魂の最下層である動物魂(ネフェシュ)、マルクトの領域に降臨し、下層部から魔術師の魂を変性していくと定義したのです。彼は、その変性の過程を「聖守護天使の幻視」と呼んでいます。従って、彼の魔術の大作業(Great Work)のプロセスは「聖守護天使の幻視」⇒「聖守護天使の知識と会話」⇒「深淵超え」の三段階に要約されています。現アイオンの中核的な術式、クライマックスは人間界を超越し、カバラで「至高三角形」と呼ばれる神域への回帰、即ち「N.O.X.の術式」に移行しています。それは「死して蘇る神」の偉大なる神話を破壊する幾分大胆な発想かもしれません。

ここではGuntherの述べるアイオンの術式の移行について解説しました。それでは所謂「術式」とは単なる概念なのでしょうか? それは決して単なる概念などではなく「体験」なのです。ここでは私個人の体験を述べさせていただくことにします。私はA∴A∴の参入者として『門の書』の儀礼を通過し、正に「聖守護天使の幻視」、光による聖守護天使の降臨、「L.V.X.の術式」を体験しました。それは単なる概念、神話、想像の類ではありません。「聖守護天使の幻視」を経ることによって得られる変性力ほど実在的な力は他に存在しない、というのが私の率直な感想です。それは魔術師の視点、世界観を変え、強固な変性のエネルギーを齎してくれる次のステップの為の強力な触媒なのです。2000年、あるいは4000年にも及ぶ、迷信と抑圧の時代。ユダヤ絶対神は人間臭く、気まぐれで、異教徒を容赦なく皆殺しにする暴君であり、キリスト教は人間が理想化投影の末に作り上げた迷信と恐怖の上に打ち立てられた抑制の宗教でした。それらの人間の歪んだ投影と恣意的な迷信により、一体どれ程の血が流れたことでしょう。 クロウリー、そしてGuntherは、それらの無益な「父のアイオン」の崩壊を宣言し、そして人が「真の意志」を発見・解放するための重要な鍵を我々に提示しているのです。

Love is the law, love under will.