Frater K.N.

Do what thou wilt shall be the whole of the Law.

1975年の8月、オカルト出版社サミュエル・ワイザーは一通の手紙を受け取りました。フラターK.N.を名乗る若者は、テネシー州ナッシュビルに住むA∴A∴の魔術師であり、独自の魔術活動の中で「秘密の首領」と接触し、”米国にA∴A∴のチャプターを設立する権利を得た”と主張していました。ワイザーのスタッフは、その手紙を当時ワイザー社から『法の書解説』の出版を間近に控えていたブラジルのセレマイトにしてA∴A∴の首領であったマルセロ・モッタへ転送しました。

マルセロ・ラモス・モッタ。クロウリーが正式に自分の後継者として名指ししたドイツ人オカルティスト、カール・ヨハンネス・ゲルマーの弟子にして後にS.O.T.O.を設立し、当時はまだカリフェイトOTOと呼ばれていたOTOとその正当性(というよりもクロウリー著作権)をめぐり、激しい法廷抗争を繰り広げた人物です。
モッタは、フラターK.N.に驚くほど友好的な返信を送り、A∴A∴にはそもそもチャプターやロッジという概念は存在しないことを諭しました。そして「我こそは秘密の首領なり」とフラターK.N.に告げたのです。それ以降、数年間に渡りフラターK.N.は、マルセロ・モッタの高弟、そしてSOTOを代表する魔術師としてモッタの右腕となったのです。彼はモッタの出版物、SOTOの公的活動を献身的に補佐し、A∴A∴のトレーニングに没頭、彼自身も、彼の弟子の育成に精力を注ぐことになります。

1970年代のオカルト・リヴァイバルの奔流の中、OTOの第九位階のイニシエートであったグラディー・ルイス・マクマートリーは、OTOの復興を手掛け始めます。マクマートリーは1941年、当時活発な活動を展開していた米国カリフォルニアのOTO支部アガペー・ロッジNo.2」において団にイニシエートされています。彼のOTOへの参入は「ロサンゼルス・サイエンス・フィクション協会」で出会った一人の友人、ジャック・パーソンズの導きによってもたらされたものです。そして件のジャック・パーソンズこそは後の「ババロン・ワーキング」などで有名になった伝説の魔術師にしてアンチ・クライストであり、当時のカリフォルニアOTOの中心的人物でした。グラディーとジャックはサイエンス・フィクションや魔術、詩について語り合い、大いに意気統合します。更にジャックは、当時のアガペー・ロッジのマスターであったウィルフレッド・スミスとグラディーをひき会わせる事にも成功します。ハリウッドでスミスが司祭を、レジーナ・カールが女司祭を務める「グノーシスのミサ」に参列したグラディーは自分がセレマイトであることを確信したのです。

グラディーとクロウリーが始めて会見したのは1943年10月30日のことでした。彼は第二次世界大戦下のロンドンはジャーミン・ストリートにあったクロウリーのアパートを訪ね、数時間を共に過ごしています。その後もクロウリーと頻繁に手紙を交換し、クロウリーの指名により、団の高位階 ( 第9位階 ) と役職 ( Sovereign Grand Inspector General, SGIG ) を直接授けられることになります。それ以降も二人の魔術師は親密な書簡を交わすことになります。

クロウリーからグラディーへの手紙の中にはOTOの将来を危惧した彼が「カール・ゲルマーの認可の下においてのみ、君にカリフォルニアのOTOの改善と運営の権利を与える。ただし緊急時のみ。」という旨の手紙がありました。これは1946年3月22日と4月11日付けの手紙に記されており、現在では「カリフェイト・レター」と呼ばれる最重要書簡としてOTOの書庫に保管されています。カール・ゲルマーの指導体制下にあっては、OTOは衰退の一途を辿り、1960年代にはすっかり消滅したものと思われていました。しかし、マクマートリーはその間もソロール・メラルやソロール・グリマウド、フレデリック・メリンガーなどといった旧アガペー・ロッジの面々との接触を続けており、OTOの再興を計画していました。ついに彼は1970年に米国のレウリン書店からクロウリーとハリスの「トート・タロット」を復刻し、自らがOTOのリーダーであることを宣言しました。

クロウリーが認めた「緊急時のリーダーシップ」を発動する大義名分には明確なものがあったと彼は考えました。既にOTOが壊滅的状態にあるにもかかわらず、魔術界ではクロウリーの人気が高まりイニシエートを望む志願者が多数いたこと、またケネス・グラントや宿敵マルセロ・モッタなどの非正統派OTOが団の首領を宣言していたことです。更にカリフォルニアで発生した幼児虐待事件の首謀者がOTOの「ソーラー・ロッジ」を名乗っていたこと、など正にOTOは大変な危機状態にあったといえます。カリフォルニア州バークレーというカウンターカルチャーの中心地に移ったグラディーは精力的にOTOの活動を展開します。自宅を開放し、OTOのイニシエーションを授ける一方、クロウリーが1910年にロンドンのカクストン・ホールで上演した「エレウシスの儀礼」を復活させたり、全米や更にはカナダにまで足を延ばし、イニシエーションを授けて廻るなどの目覚ましい活動を展開したのです。1978年には団の実力者ビル・ハイドリックを編集長に据え、充実した内容の機関誌「OTOニュースレター」を発刊、瞬く間にグラディーのOTOはヨーロッパ圏を含む世界的な魔術結社に成長したのです。この流れは1988年、日本をも呑み込むことになります。来るべき2013年はOTO Japanにとって、25周年という一つのターニング・ポイントになります。

マルセロ・モッタの右腕であったフラターK.N.は、盟友リチャード・ガーノンと共に1976年7月25日、サンフランシスコ空港に降り立ちます。グラディーとモッタの法廷闘争が激化する以前の出来事です。フラターK.N.は、あろうことかグラディーを始めとするカリフォルニアのOTOのメンバー達と接触することになっていたのです。フラターK.N.は今回の接触にあたってモッタから事前に指示されていたことがありました。もし、今回の接触でカリフォルニアのOTOからイニシエーションのオファーがあった場合、今後のSOTOの参考の為にも、是が非でもそれを受けよ、という指示です。彼は、自ら進んでOTOの最初級の位階であるMinervalのイニシエーションを受けました。この参入儀式は、グラディー・マクマートリーの手によって行われ、また助手はジャック・パーソンズとW.T.スミスという、かつてのアガペー・ロッジの二人のマスターの未亡人であったヘレン・パーソンズ・スミスが努めました。この会見の場では、グラディーと共にOTOを再興したソロール・メラル(当時のグラディーの妻)は、モッタの高弟に対して、とてもつれない態度をとっていたそうです。メラルは、どうやら先輩にして友人である魔術師イスラエル・リガルディーから「モッタには気をつけろ」と入れ知恵されていたようです。いずれにしてもフラターK.N.は、一旦はこうしてOTOに迎え入れられたのです。会見の中で、グラディーは自身をOTOの首領であると主張する一方、マルセロ・モッタが「A∴A∴の首領」であることを認めました。OTOとA∴A∴は勿論、独立した二つの魔術結社であり、その活動内容は大きく異なっていたからです。

1985年にはモッタのSOTOとグラディーのOTOの間に法廷闘争が勃発、後に合衆国連邦裁判所にてグラディーの団が「正統なOTO」として認められました。しかし、同年グラディーは息をひきとります。それから数ヵ月後、OTOの第9位階のメンバーの投票により、ニ代目のカリフにして六代目のOHOにあたるフラター・ハイメナウス・ベータが選出されたのです。

ここでもう一つ複雑に絡んだ事象が発生していました。それは、ハイメナエウス・ベータは、かつてモッタのA∴A∴のプロベイショナーであり、しかもフラターK.N.の直属の弟子であったという事実です。ハイメナエウス・ベータは1975年の10月、ニューヨークを訪れていたフラターK.N.の下でプロベイショナーの誓いを立てたのです。

米国の高名なOTO魔術師ジェームズ・ワッシャーマンは、かつてのOTOとSOTO(グラディーとモッタ)の闘争は、” A∴A∴とOTOの「戦争」だった”と述懐しています。そして時代は流れ、かつての両団の「戦争」は終結し、まるで断絶そのものが嘘であったかの如く、その盟友関係は回復されています。フラターK.N.は、後にダニエル・ガンサーの名で著作を発表し、世界のセレマイトの頂点に君臨しています。彼は、件の法廷闘争が勃発する以前にモッタと袂を分かち地下に潜伏しました。彼を尊敬してやまない一部のOTOの高位階者達は、90年に入ってガンサーと合流します。ガンサーは、OTOには参加せず、ひたすらA∴A∴におけるGreat Workに献身し続けています。若かりし頃、”米国にA∴A∴のチャプターを設立する権利を得た”というちょっぴり恥ずかしい宣言をしたテネシーの若者。彼は、紛れもない本物の魔術師だったのです。

人と人の繋がりは不思議なものです。A∴A∴とOTOを継承した二人の魔術師は、37年も前に師弟の契を交わしていたのですから。これは天使の悪戯以外の何ものでもないのかも知れません。

Love is the law, love under will.