魔術結社への参入に際して

Do what thou wilt shall be the whole of the Law.

魔術の世界観に初めて接し、驚嘆し、触発された若き日のことを今でもよく覚えています。魔術の世界観は、それまでの無味乾燥で平坦な世界観に対するもう一つの解答にして解釈であり、精神の秘めたる可能性を鼓舞するものでした。私の場合は、魔術の世界観に触れると同時に魔術結社への参入に想いを馳せるようになりました。魔術結社が有する訓練課程、知識講義、参入儀式のプロセスは、自分自身の探究の径に対する有効な触媒であると直感的に感じたからです。今日に於いても、そのような想いを抱く志願者の皆さんから定期的にコンタクトをいただき、また質問に答えてきました。そのような際には、いつも若き日の自分自身の有様を想起します。

ところで魔術結社への参入を希望するということに本当に意味があるのでしょうか? この問いに答えることは実はそう簡単なことではありません。何故でしょう? もしその問いに対してシンプルに答えるとするならば、「魔術の実像を描けない志願者は、容易に落胆し、容易に結社から去る」という事実を挙げることが出来ます。実際、そのような場面を沢山見てきました。ところで魔術の実像を描く、とは如何なる行為なのでしょうか? 今から15年程前に書いた私自身の文章を少し、引用してみます。

“魔術とは第一義的に意志の力を行使した、変成の技術体系全般を指す。これは無意識的・恣意的・強制的なあらゆる「意図しない」ぜんまい仕掛けとしての有機体的所作からの脱却である。魔術とは知性によって制御されたかに見える事物の裏面に流れる、より自然な宇宙原理を召喚し、その力流に同調する一連のテクノロジーを提供する。従って魔術の力動的底辺を稼動させ、全体を整え、目的へと導く有機体の制御部位を我々は「意志」(Will)と命名する。意志は変成への最初の憧憬であり、慄然とした方向性の確立であり、実践魔術の燃料にして、統率者である。意志は畏怖の念に溢れてはいるが、決して恐れることはない。意志は恍惚を求める不可避の、そして魂の最上の中核との融合へと向かう。事実、魔術の修行は、この意志の発見と訓練に多大な時間を要するのである。我々は、我々が普段語り得る、目的への飽くなき渇望以上に意志について語ることは困難である。何故ならば、意志を磨き、それを発現/昇華させた術者は、それのみで既に「大いなる作業(The Great Work)の殆どを達成したことになるからである。”

一般的・平均的志願者は、長期間の訓練課程抜きに魔術の技を会得できるのではないかという幻想に苛まれます。しかし、この世には、そんな安易で荒唐無稽な幻術の如きものは存在しません。ある一定の効果を得る為には、精神修養を基礎とした断続的、且つ能動的な訓練課程への従事が必須です。その過程は、曖昧で非科学的なものではありません。名のある魔術結社は、合理的で理路整然とした常識あるカリキュラムを保持し、学徒に提供しています。またそこにはいささか複雑で労力が求められる献身の径が待ち受けています。魔術修行への憧れは、すぐに吹き飛んでしまうかも知れません。その為に、私達は、正直に自分自身を見据える必要があります。

さらに私が書いた古い文章から引用します。

“ 魔術とは行動であり、実証主義による再定義を求める。個々の魔術師はそれぞれが、異なる感性と能力を有しているが故に、実践魔術においては細分化された数学的公式を構築することが不可能である。 反面、知識なき行動は危険を伴う。我々は召喚する神々以上に、我々自身のプシュケーに対する注意と観察、更には理解が必要である。魔術は決して 説明不可能な奇跡や非科学的心霊現象を引き起こすことはない。聖別された魔法円に侵入してくる悪魔は、魔術師の外に存在しているのではない。常に彼と同居し、彼を内側から侵害しているのだ。故に正しい動機は正しい結果をもたらす。”

混沌魔術が敷衍し、即効性がある実用的な魔術アイテムとして紹介したA・O・スペアの「シジルの技法」については、補足しておく必要があります。ジグムント・フロイトの擁護者であったスペアは、自我を欲望達成の為の阻害因子と位置付け、無意識操作による呪術の有効性を唱えました。そして、彼はフロイトの「抑圧」の概念を逆転し、応用する技法を編み出したのです。抑圧とは簡単に云うと、自我を脅かす願望や欲望を、自我が意識から追い出し、無意識下に押し込めてしまう事象を指します。例えば、人は「やってはいけない全ての事」に憧れを持ち、しかしながらそれを理性の力で克服しようと葛藤します。それが性的なことであれ、なんであれ彼は否定しようのない倫理感に基づき、それを抑圧します。すると抑圧された欲望は、自我の封印に対し静かなる反逆を起こし、意識に浮上しようとします。自我は疲弊し、時には「魔がさした」かのように抑圧した欲望に翻弄され、予期せぬ行動に駆り立てられるのです。スペアのシジル魔術の原理は、このプロセスを逆転させることによって成立します。つまり、予め定義された欲望は、自我が判別不可能なシジルへと変換された後に、故意に無意識に埋め込まれます。自我は意図的にこの欲望を忘却し、それを呪術の源泉である無意識下に沈めるのです。しかし、賢明なる読者の皆さんが想像する通り、シジルが実現してくれる願望の実現範囲はそう広くありません。何故なら、それは単にフロイトの抑圧のメカニズムを逆応用しただけのシンプルな技法をその基礎を置いているからです。欲望をシジル化し、故意に無意識に沈め、欲望の発露を促したところで「一か月以内に宝くじで一億円当てる」という願望は叶いようがありません。スペアの体系の核は「自己愛」(それはナルシシズムとは相容れない深遠なる魔術哲学です) を中心とした自己の本質の獲得にあります。もし彼のシジル魔術が万能であったならば ---それは彼の芸術に対しては万能であったかもしれませんが---彼の晩年の薄暗いアパートでの猫達との生活は、もっと光に溢れたものになっていたでしょう。彼の述べる中間性概念 「Neither / Neither あれでもなく / これでもなく」 は元々、インドのウパニシャッドに登場する概念です。少なくとも彼が述べる難解なゾス・キア・カルタスの教理の根幹は、大乗仏教中観派の「空」の概念によって、既により十全に語り尽くされています。彼は西洋では異端であり、革新的であったかも知れませんが、東洋では2,000年前から議論されていたテーマの再来であり、実はそんなに革新的な哲学体系ではありません。
ネットを散策していると時にこのシジル魔術を無防備に礼賛し、なんにでも効力のある最もシンプルで強力な魔術であるという記述を目にすることがあります。これは無知による誤解が原因としてあるのでしょうが、実際にシジルの技法を有効に活用し、効果を出す為には、長期間に亘る訓練課程が必要であることは言うまでもありません。一時は一世を風靡した混沌魔術ですが、残念ながら、今では最も退屈な魔術の一ジャンルになってしまっているようです。

魔術結社への参入を求める際に必要なことは、「魔術の実像」を描いた上で、自分に合った正しい団を選択することです。さて、あなたは魔術結社に何を求めるでしょうか?

“ 魔術を行うことの意味と目的意識を理解することなくして、魔術的知識と技術の発達は困難である。個々の魔術師にとっての正しい動機とその目的は、<我々の問題>ではなく、<彼/女自身の問題>である。作業を始めるにあたって、自問すべき問題は三つある。
「あなたの最終目標は何か?」
「あなたは何を欲するのか?」
「何故、あなたはイニシエーションを求めるのか?」
あらゆる魔術師にとって、その目標は一つであるとは限らない。また、目標や求める対象が時間の経過と共に変化ないし進化する場合もままある。しかし、現時点におけるあなたの志と目標の分析は、あなたにとっての正しい動機を探るという意図以上に、あなたとプシュケーとの綿密な関係への第一歩になるだろう。もし、この時点であなたが「意志」の朧げな輪郭をほんの少しでも垣間見ることができれば、この自問の意味はとてつもなく大きなものになる。正しい動機は意志を強化し、目的を明確にする筈である。不確定な意志は一時の気の迷い程度の労力しか生み出さず、故にそれに見合った結果しかもたらさない。”

実際には、なぜ魔術結社への参入を求めるか? を正しく定義し、理解することはそう簡単なことではありません。ただし、単に自分の願望を叶えたい、儀式で神格や天使を呼び出してみたい、というような曖昧な動機だけでは、「落胆」以外のなにものも得ることはないと思います。魔術結社は、その参入希望者に対して、必ずや団に参入する目的を確認します。もし、その回答が不適切なものであれば、参入は許可されないのです。それは団にとっても志願者にとっても適切な処理となります。

魔術は、あなたを幸せにするとは限りません。魔術があなたの精神のバランスを崩してしまうというリスクは常にそこに存在しています。また魔術は万能ではありません。その径に進むには覚悟が必要です。もしあなたが、真摯に「回帰の大いなる径」へと邁進しようとするならば、あなたは多くのものを得る代わりに多くの犠牲を払うことになります。逆にその覚悟さえあれば、自ずと道が開けます。あなたは然るべき人と然るべき時に出会い、また然るべき段階において結社へと受け入れられる筈です。

“ 均衡こそが、全ての作業の基盤となる。魔術は個が抱く意志の性質において、様々なスペクトルを織り成す。従って魔術そのものは黒でもなく、白でもない。澱んだ心には閉鎖と呼ばれる限定的な闇が待ちうけるのみである。魔術師はその杖(=火)において意志を確定し、揺らいだ心を中央の柱へと固定する。魔術師は杯(=水)において神性を理解し、恍惚を受け入れる。魔術師は剣(=風)において万物を分析し、径を切り開く。そして魔術師はペンタクル(=地)によって大地に根ざし、神殿を建立する。これらの魔術的作業の間に均衡が確立した時、魔術師は第五の元素を見出し、輝く五芒星と自らを同化させることが可能となる。”

そして最も重要なことは、常に作業に貪欲であり続けることです。維持する力は、なににも増して強大な意志の技です。魔術の最大の才能とは「常に自分を燃え立たせる能力」です。常に自分自身を鼓舞し、熱望を抱くことが出来なければ、全ての魔術的行為はいずれ空虚なものになっていきます。誰も修行を強要することが出来ないが故に、個人が抱く大望の大小がその人の魔術的能力を決定します。

あなたに素敵な出会いがありますように。

Love is the law, love under will.