Memories 1

HierosPhoenix2010-05-15

Do what thou wilt shall be the whole of the Law.

 部屋の片隅に積まれた手紙の束、数々の機関誌、古い魔術の記録ノート。先日、ふと気になってそれらの資料を改めて眺めてみました。1989年の春から現在まで21年。あっという間ではありましたが、その間様々な人達との交流がありました。今回は回顧録です。

 1989年というと、ここ日本では西洋魔術、カバラ、タロー、クロウリーや数々の魔術団体の活動等に関してとても情報が少ない時代でした。Webのない時代に魔術の情報にアクセスしようと思えば、それなりの苦労がありました。当時日本を拠点とする魔術団体はI∴O∴S∴ぐらいのものでしたが、正にこの団体が発行していた『ホルスの槍』並びにその『号外』のみが唯一の貴重な情報源であったといっても過言ではありません。『ホルスの槍』はフランシス・キング、OTOやダイアン・フォーチュン、S.O.L.などを特集する不定期の機関誌でしたが、その内容は当時の日本では突出したクオリティを読者に提供していました。一方『号外』は、団員への通信欄や小エッセイ、書評に加えて海外・国内の魔術団体事情を掲載していました。これらの文章は専ら団の学習主任であった主催者 秋端勉氏によって書かれたものでしたが、今再読してみても得るものが多い優れたものです。

 私は劇的な女神ヌイトとの邂逅---至高体験の後に某オカルト雑誌を経由してI∴O∴S∴の機関誌『ホルスの槍』を知りました。これも1989年のことです。また当時、学研から出版されていた『高等魔術実践マニュアル』にもI∴O∴S∴の学習カリキュラムが掲載されていましたから、この団体に対する概要は把握することができました。所謂「黄金の夜明け」系列の団体であることは、その教義内容から明白でしたが、海外でもまだパト・ザレウスキーやチック・シセロらが細々と「黄金の夜明け」の体系を復興させつつある段階でした。そんな状況下で、日本にこのような団体が存在したこと自体が奇跡ですね。
当時の魔術師志願者達は大抵 W.E.バトラーの名著『魔法修行』を底本に実践をし、それにフォーチュンの『神秘のカバラ』やリガルディーの『石榴の園』等でカバラ的な知識を補うのが定番だったように思います。ですので、当時入手したI∴O∴S∴の『ホルスの槍』<「光の侍従団」(Servants of the Light)特集>は、私にとっても実にタイムリーなものでした。「光の侍従団」(略称SOL)は、そもそも秋端さんが魔術を学んだ母体でもありましたし、バトラーの翻訳等も手伝って日本では比較的知名度の高い魔術団体だったと思います(今も昔も、世界三大魔術結社というと大抵OTO, BOTAとこのSOLになると思いますが)。

 早速、I∴O∴S∴の『ホルスの槍』号外も定期購読することとし、併せてI∴O∴S∴へ入団希望の手紙を送りました。ところが秋端さんからは落胆すべき返信が返ってきました。当時のI∴O∴S∴は不用意に団が拡充し、団員が増加したため指導が追いつかず、暫くは新規参入者を受け入れることはできないとのことだったのです。そこでともあれ、新規入団が可能となる時期を待ち、それまでは単独で学習していくことを決意しました。当時の魔法の記録を読むと経験は浅いものの、まるでオカルトにとり憑かれたような熱意溢れる若者の学習と実践の記録を読むことができます。魔術の基礎訓練や夢の記録、無謀なエノキアン・マジックによる護符聖別、特定の魔術に対する連続的考察etc etc。クロウリーの歴史的名著 Liber ABAの第一部、第二部を収録した『神秘主義と魔術』や難解極まりない第三部『魔術-理論と実践』から絶大なる影響を受けていた私は、熱烈なクロウリー信奉者でしたが、こと実践に関しては解らないことだらけで、実践の基礎としては「黄金の夜明け」団流の魔術を自習していました。「カバラ十字」「五芒星小儀礼」「中央の柱」は定番でしたので、それを継続的に訓練しながらI∴O∴S∴からの入団許可を待つ日々です。

 あまり知られていないことですが、実はかつて日本にはマイケル・ベルティオーが主催する「古代東方聖堂騎士団」と「黒蛇団」の支部が存在していました。「古代東方聖堂騎士団」(以下OTOA)は、クロウリーが世界的指導者となる前のテオドール・ルイス指導下における大陸系OTOの流れを汲む団体で、フランス系OTO(ジェラルド・アンコース主催)の末裔でした。この団体は、現在でも特異な位階制度と教義を持ち、クロウリーのOTOとは全く独立した形で活動を継続しています。「黒蛇団」は正式には「ラ・クルーブルノワール」(以下LCN)と呼ばれ、前出のフランス系OTOAがハイチに設立した支部を起源としています。ジェラルド・アンコース(1865-1916)は、英国のジャン・ヤーカーの死後、秘教的な「メンフィス & ミスラム」の儀礼を継承し、またマーティニストの団体を設立し、他にもフランスの薔薇十字復興に寄与した人物で、一般にはパピュスの名前で知られています。そのパピュスの知人で若きハイチのアデプト、ルシアン・フランソワ・ジャンメンがOTOAとLCNの立役者です。米国シカゴの魔術師マイケル・ベルティオーは、ジャンメンのフランス・ハイチ系のOTOを継承し、現在も存命中です。海外ではLCNの魔術体系ならびに教義は、「ヴゥードン・ノースティック・ワークブック」という分厚い本として公刊されています。日本に存在していたOTOAとLCNは、その前段階となる学習のカリキュラム「The Gnostic Teaching of Michael Bertiaux」を提供していました。これは全体で四年間に及ぶ膨大な教義文書で、日本では前半の二年分が翻訳されていました。またこのカリキュラムは「七光線の修道院」という別団体の管轄となっていて、ケネス・グラントはその抜粋やOTOA, LCNの魔術体系を、彼のタイフォニアン・シリーズの第三弾『影のカルト』にて大々的に紹介しています。私自身も、このカリキュラムの前半の二年分を学習しましたが、日本のOTOA, LCN自体が消滅してからは、そのラインはぷっつりと切れたままです(後に、日本の主催者に会った際に確認したところ、このカリキュラムを受けていたのは私を含め、たったの二人だったそうです!)。OTOA, LCNの教義は一般的な西洋魔術やセレマの体系から見ると驚く程独創的で難解な用語を使用しています。最近になって、ベルティオーの弟子であるデビッド・ベスという魔術師が『Voudon Gnosis』という本をイギリスで出版しましたが、そちらの方はかなり解り易く書かれており、本体の講座、カリキュラムに比べ数段すっきりとしています。彼らは例えば、生命の樹の裏側の探求を熱心に行ったり、複雑で独創的な性魔術の教義を保持していて、現代でも尚、謎のカルトです。

 日本のOTO(当時はカリフェイトOTOと呼ばれていました)は1988年に設立され、実に22年の活動暦を持つわけですが、当時においても幅広く門戸を開放していた訳ではなく、実際私の参入は1995年になります。1991年になってようやくI∴O∴S∴から新規入団OKの連絡が届きます。秋端さんから届いた手紙と『ホルスの槍-号外』を片手に喜び勇んで近所の長居公園のベンチで貪るように読んだことは今でもよく覚えています。当時は現在のような12章からなる膨大なプロベショナー講義文書は存在せず、シンプルな小冊子2冊程度が入手できるのみでした。まずは魔術の基礎から、というわけで弛緩法や呼吸法、そして知識講義による基礎固めに注力しました。確か半年程度でニオファイトへ昇進したと記憶しています。ここからほぼ五年間続く”I∴O∴S∴修行時代”についてはまた改めて書くことにしたいと思います。

 この時期(1989-1991)を回想してみると、やはり熱心なオカルティストは日本にもいたと思います。ただWebのない時代ですから、とにかく団体に所属しないと同好の志に出会うことはほぼ不可能でした。どこにどんな人がいて、どんな修行をしているのか? そんなことが皆目見当もつかない時代だったのです。今、思うと懐かしいですし、微笑ましい部分も多々ありますが、当時はとにかく早く団体に所属せねば! という焦りばかりがあったような気がします。今の時代は、Webの掲示板でもSNSでも簡単に交流できてしまうわけですが、その分切羽詰ったものや緊張感は何もないのかも知れませんね。

Love is the law, love under will.