Memories 2


Do what thou wilt shall be the whole of the Law.


私が魔術の基礎を学んだI∴O∴S∴は、日本では珍しく「教育」に主眼を置いた魔術団体でした。O.T.O.のように連続した独自の位階の儀式と象徴体系を主体とし、公的な教育は実質行わないという魔術団体とは趣を異にするわけですが、欧米に数多存在する教育団体は魔術結社の定番といえます。まず団体には優秀なリーダーが不可欠です。I∴O∴S∴の場合、その重責を担うのは団の主催者であり、教育主任でもある秋端さんです。いわばI∴O∴S∴は秋端さんとイコールの等式で結ぶことが可能であり、彼が団の根幹そのものでもあるわけです。団は中心に座すリーダーが経験豊かでなければなりません。その卓越したリーダーの魔術的カリスマの周囲に団員達の集合精神が構築され、相互作用を働かせながら、団全体の公的・秘教的リアリティを形成していくのです。秋端さんの秘教に関する知識の幅は半端なものではありませんでした。また欧米の魔術結社で修行した実績もあり、当時の日本では(勿論、現在でも)突出した存在でした。もし団の主催者や中心人物が、生かじり程度の知識と僅かな実践経験を基に団を興したらどうなるでしょう? 当然の帰結として、彼は怪しげな粉飾と欺瞞、あるいは霊界からの導き(宇宙人という場合もあります!) や自分勝手な霊感や神託、根拠のない高位階などといったナンセンスな拠り所を糧にするしかありません。それらが齎す結果は、いずれも幼稚なものでしかなく、物笑いの種に終わるのみです。その点、I∴O∴S∴は真摯なスタートラインに立ち、また堅実な運営を行っていた団体だと断言できます。「全ての学徒に門戸を開放する」、という理念に立てば、多くの志願者をためらいもなく迎え入れることが可能です。しかし、如何なる魔術団体も、その上で学徒に献身を求めます。当然のことながら、門をくぐることだけが目的ではなく、その後、継続的に「大いなる作業」に没頭する熱意が求められることは言うまでもありません。換言すれば、気まぐれや思いつきだけではすぐに作業は頓挫してしまうのです。魔術の訓練とは、志願者の日常に従来、非日常的であったものを意図的に持ち込むことを意味します。日々の生活の中に唐突に浸入してきた新たな生活習慣は、長年培ってきた志願者のリズム、思考、感情、行動に少なからぬ影響を与えることになります。それらの影響が、新たな刺激となって魂の変性の第一段階が開始されるのです。しかし、ここで立ち止まって考えてみることが重要です。この世の中には魔術訓練から逸脱させるための誘惑がいかに多いことか! 訓練をおざなりするための理由はいくらでもあります。基礎訓練の代わりに寝そべってテレビや映画を観ること、親しい友人と週に3回飲み歩くこと、新刊の小説を読み耽りたい願望、ギャンブルやドライブ・・・志願者の周りは魔術訓練を無化してしまうもので埋め尽くされているのです。魔術の才能とは、優れた視覚化能力でもなければ、類まれな知性の閃きでもありません。意志の持続力なのです。志願者が最初に抱いた大望を維持し、自分自身を鼓舞し続けることが出来る才能こそが重要な力なのです。

I∴O∴S∴の魔術的な霊統は、英国のSOLと米国の某「黄金の夜明け」系列の団体に由来します。とりわけSOLは、重要なルーツであるわけですが、I∴O∴S∴ではより「黄金の夜明け」団の伝統に近い形で教義を整備していました。団の位階制度や教義内容、儀式などにその影響が色濃く現れています。いずれにしてもI∴O∴S∴は日本初の本格的な西洋魔術の教育団体であったことは疑う余地もありません。

I∴O∴S∴での私の魔術の記録は1991年の8月10日から始まっています。カバラ十字とLBRP、神の姿勢での弛緩などの実にベーシックな訓練から開始されています。「人体内の生命エネルギーを魔術作業の為に変換させる」「0=0作業の成就の為に規則正しい生活と自己管理を徹底する」「光とは神の意識であり、あらゆる顕現の物理的・形而上学的宇宙的な唯一の根本存在」「私の本質と対話する為に、この沈黙を成就し、更に内省に努めねばならない」「この普遍的な一つの点は宇宙にとって必要不可欠な存在であり、私の中心にして宇宙の中心である」「私はArmchair Theoreticianに陥ることなきよう結社の門を叩いたのだ。故に私は知識の為に行動し、行動によって知識を得るのだ」「精神内部のエネルギーのバランスを故意に崩す事によって変化は生まれ、自らの道徳律によって光に導かれるのだ」などなど、当時の初期の魔法日記には、微笑ましい記述が多々記録されています。

『世界魔法大全』や続刊中の『アレイスター・クロウリー著作集』を貪り読む日々でしたが、面白いことに当時私が住んでいた近くの街のオカルト・ショップに結構な量の魔術の洋書が販売されていることを発見しました。そこで初めて買った本はイスラエル・リガルディーが編纂したクロウリーによる「法の書」の解説集_The Law is for All_でした(奇しくも、このblogの表題ですね)。またそのショップの本店ともゆうべき神戸には、信じ難いことに西洋魔術関連の本格的な専門書店もあったのです。比較的小さなスペースとはいえ、四方の壁は新刊、中古の魔術書が堆く積まれ、その蔵書量は後に訪れたロンドンのアトランティス書店を凌駕するものでした(東京の目黒にも同列店があったと聞いています)。更にそのオカルト・ショップの出版部門からは「アブラメリン」、「ゲーティア」、「ソロモンの大鍵」、「アルマデール」などの中世の奥義書を初め、より現代的な魔術書籍の翻訳刊行が開始されたのです。驚くべきことにクロウリーダイアン・フォーチュンイスラエル・リガルディー、W.G.グレイ、ドン・クレイグ、ドナルド・タイソンらの原書をいくらでも近所の書店で購入できたのです(この極東の地で!)。これらの幸運に後押しされてか、私の本棚にも本格的な実践魔術の原書が取り揃えられました。ますます魔術に没頭する日々です。

再び魔術の記録へ。「霊的奉仕について。無意識から無数の黒い法衣を纏った魔術師の集団のイメージを得る。彼らは物質を構成する無数の原子のようだった。彼らの内の一人でも黒い作業を行ってしまえば、集団から弾き飛ばされてしまう。我々の集合精神は、光の探求にあるのだ」「眼前のイメージは常に無定形で変化に富む力の存在であった。それは生物の意志が介在する前の無意識的な純粋エネルギーの流動性を表している。子宮---という言葉が浮かぶ。なるほど我々は、大宇宙という巨大な母の子宮の中で力を与えられ、養われているのだ。私の意志は血管となって母から栄養分を摂取し、自らの力を増すのだ。意志は大宇宙とアクセスするための重要なリンクだ。意志で黒い力を招き入れてはならない」「恐怖と嫌悪は必ずしも同時には起こり得ない。ルシファーは人間に試練を課す。畏怖から生じるある種の感覚は時として恐怖と似ている。魔術師は、恐怖と正面から立ち向かいそれを克服せねばならない。恐怖心は多大なエネルギーを持っている。恐怖とは本能的ではあるが、思考の一形態に過ぎない。私は”強くあれ!”と自分に言い聞かせた」
初期の記録を再読してみると初心者故に着想が凡庸なのは致し方なし、との印象を受けます。初期の訓練では、飛躍的に大きな成果が出る訳ではなく、特に弛緩や四泊呼吸は実に退屈な作業です。でも魔術修行を何年推し進めたところで、それらの基礎は必ず要求され続けます。私にとっても、これらの初期訓練は不可避のものでした。

単純で退屈な魔術訓練のつまらないことといったら! 全ての志願者が訓練の初期に抱く正直な感想こそがそれです。「なぜ?」を自分に問いかけることは決して悪いことではありません。しかし、訓練をサボるための「なぜ?」は、志願者の意志を減退させ、やがては作業の放棄へと繋がることを十分にリマインドしなければなりません。そして、志願者は西洋の秘教伝統では既に馴染みの概念である「境界の住人」(Dweller of the Threshold)の妨害を受けることになるのです。「境界の住人」とは心理学的には、志願者の抑圧された影であり、秘教的には志願者の聖守護天使に対抗する情動的勢力です。「境界の住人」は、これまでの志願者の思考、感情、行動に変化が起こることを嫌い、それを妨害するのです。志願者は神秘の目前に真っ黒なヴェールが掛かっていると感じ、最初の大望が夢想だったと感じ、最終的に作業そのものを放棄してしまうのです。「境界の住人」は狡猾に、そして周到に作業を放棄する「言い訳」を感情のバイブレーションとして志願者に伝達してくるでしょう。これは、どんなに意志の強固な志願者の身にも起こることであることを強調しておきます。そして、「境界の住人」の干渉を受けることは逆説的に、志願者の魂に着実な変化が生じつつあることの証左でもあります。

クロウリーは人類の進化の最大の障害物は、一言で表現すると「ノイズ」であると断言しています。そしてこの厄介な「ノイズ」が志願者の周囲に渦巻いていることを、まず最初に認識することが重要です。更に云えば、この「ノイズ」、「境界の住人」と真っ向から衝突することは避けるべきです。クロウリーが大深淵を渡る際に、砂漠で大悪魔コロンゾンと対峙した逸話は有名です。ですが、訓練を始めたばかりの志願者にはまだ障害物に全身で体当たりして、それを破砕するだけの力はありません。より狡猾にそれをやり過ごすべきです。ですから、清廉潔白を望み、作業に埋没することだけが正しいと考えるのではなく、決して無理をしないことも大切です。心の柔軟性を研磨するためにはユーモアのセンスも重要なファクターです。そして「境界の住人」を恐れるのではなく、それを受入れ、対話を試みることも重要です。意欲と消沈は循環するサイクルです。訓練を開始した直後は、新鮮で全てが上手く進んでいることに対する喜びがあります。しかし、やがてその単調な訓練に対する一時的な憔悴が訪れます。そして、その意気消沈を乗り切った時に、訓練の継続性が一定期間根付くのです。それでも、再び訓練に対する疑問と憔悴が訪れます。 自分のサボりたい欲動に6割の確率で勝てれば、まずは成功だといえます。自分を鼓舞し続けることが志願者の責務となります。ですが、完璧を目指して訓練に行き詰まり、最終的に大望を放棄してしまうようなことがないように十分心掛けなければなりません。

I∴O∴S∴はSOLにおける通信教育制度の成功例に倣って、団の学習主任が位階のテキストを配布し、また学徒は毎月魔法日記を学習主任に提出とするというシステムを採用していました。秋端さん以外にも指導者(スーパーバイザー)はいたようですが、私は秋端さんの指導下にあったので、他の状況はよく分りません。魔法日記を毎月提出するという基本的義務(即ち継続的に実践し、記録をとること)を放棄すると、修行を進める意志のあるなしを確認された上で退団ということもあり得ます。訓練を続けるためには、熱意は不可欠で、団に所属していても記録を提出しないメンバーは「幽霊団員」(死語ですね)と呼ばれたりしていました。どの団体でもそうでしょうけど、10名が同時期に入団したとして、次の位階に進める志願者はその半分以下というのが通常です(2割という場合もあります)。魔術はある意味、職人芸でもありますので、安楽椅子にもたれながら読書だけしていたいという類の人には無意味なものです。例えば、K2の登頂ルートを研究・熟知し、世界の山々にまつわる登山家の歴史を学び、壮麗な山々の写真集を100冊持っていたとしても、山に登らない人は決して登山家とは呼ばれることはありませんし、深海の美しさ、海の神秘、そしてその危険性を熟知していたとしても、自ら海に潜らない人は決してダイバーとは呼ばれません。それと同じで、書斎で古今の魔術書を読破し、カバラの理論に精通したところで魔術の実践を行わない者は、決して魔術師と呼ばれることはないのです。I∴O∴S∴に入団したとしても、記録を提出しない者が、その所属権を失う事は当然のことといえます。

I∴O∴S∴の性質(通信教育)によって、私は最初の数年は他の団員に会ったことはありませんでした。当時は東京、大阪のロッジともに活動は停滞していたと記憶しています。ロッジは団員間の友好の場でもあり、勉強会や儀式を行う貴重な学びの場でもあります。ジェレーターに昇進して間もなく、師である秋端さんからの指令を受け取ります。それは、「休眠中の大阪ロッジを再活性せよ」、というものでした。それからの数年間はロッジの機関誌「Seekers of the Light」の発行とロッジでの活動再開に着手することになります。またI∴O∴S∴全体の儀式活動、グループ・ワークも活性化され、20世紀の最盛期を迎えることになるのです。

Love is the law, love under will.