Howling

Do what thou wilt shall be the whole of the Law. 

“リトル・ブラザー、君はゲーティアに手を染めてるんだってな!”

1899年のロンドン、有能な「黄金の夜明け」団の魔術師アラン・ベネットがクロウリーに初めて声を掛けた時の言葉です。その後、二人の魔術師は、奇妙な同居生活を始め、アラン・ベネットはクロウリーの魔術の教師となり、増々親交が深まっていきます。やがて喘息持ちのベネットは、温暖で過ごしやすい土地を求めて英国を去り、セイロンの地へと移住することになります。クロウリーと共にA∴A∴を結成したもう一人の達人魔術師ジョージ・セシル・ジョーンズは、ベネットを送り出すのに際して、彼の喘息を癒す為に『ゲーティア』と呼ばれる中世の奥義書を用いて悪魔ブエルを喚起しています。『ゲーティア』は『ソロモンの小さき鍵』と呼ばれる書物の最初にして最大の部分を占める奥義書で、「黄金の夜明け」団のマクレガー・メイザースによって翻訳されたものです。悪魔ブエルは、ゲーティアの72の悪魔の10番目の霊であり、哲学、倫理と自然学、論理技術に加え、ハーブと植物の美徳を教示してくれる霊です。更に、ブエルはあらゆる病理を癒す力を持っているとされています。ジョーンズとクロウリーは、このブエルを喚起し、物理的視覚で補足し得る程までにブエルの物質化に成功しています。しかし、その姿が『ゲーティア』に記述されているブエル像から余りにかけ離れていた為、クロウリーはその喚起作業が失敗したと判断します。ともあれ、無事ベネットは温暖なセイロンへと旅立つことができました。クロウリーが初めて本格的なヨーガを学んだのは、ベネットを訪ねて渡航したセイロンの地においてでした。

 日本に古来から存在していた民間呪術---その源流は修験道密教陰陽道神道などに求めることができます。その多くは時代の移り変わりと同時に消滅したか、あるいは社会のネットワークの急速な発達によって淘汰されてしまいました。術の衰退は、西洋社会の合理性や科学の発達と反比例の関係にあったといえます。そんな中、中世からの体系をほぼそのままの形で温存・実践している体系の一つの代表例として高知県に位置する物部町(旧物部村)に伝わる”いざなぎ流”があります。その祭儀の細部は、専門書に譲るとして、ここでは彼らの呪術的側面を少し考察してみたいと思います。いざなぎ流の太夫達は、その土地伝来の儀礼書、特に祭文(さいもん)とよばれる膨大な祈祷群を有しています。今では数少なくなった太夫達は、師から譲り受けたこれらの祭文を駆使しながら、神々と交信し、また神楽などによって宗教的祭儀を執り行います。あるいは和紙を切り、巧みに作り上げた幣を多用しながら一種独特の祭儀場を形成していきます。彼らは山の神や川の神、天井裏に鎮座する御崎様、荒神、天神などと交流し、時には彷徨える死者を取り上げ、また病気を癒し、小松神社など”いざなぎ流”と縁の深い聖域での神事を執り行います。
一方で、太夫は祭文とは厳密に区別された法文とよばれる膨大な用途別の祈祷集を保持しています。法文は、陰陽師ブームで有名になった「式神」を呼び起こすための奥義書となっています。式神、または式王子とよばれる存在を呼び起こす法文の世界は、オモテである祭文とは対を為すウラの呪術体系の核になっています。『いざなぎ流 祭文と儀礼』(斉藤英喜著、法蔵館 2002年)の第五章「表の中に裏あり」は、物部町でのフィールドワークを経て、この知られざる法文の世界を詳らかにした有益な研究内容が紹介されています。

法文に関して、また式王子に関して大きく二つに大別できる系統がある、と同書は述べています。一つは、狭義の式王子を扱う法文群、そしてもう一つは、水神・山の神・荒神、天神などオモテの神々を式神として操る法文群です。本来オモテの神をウラの式神として操ると聞くと、その体系の不整合さを指摘する人もいるかもしれません。しかし、本来オモテの存在である神がウラに回ったとき、そこには強力な呪術が誕生するのです。またこの応用法が実践的な、いざなぎ流の呪術=ウラのエッセンスとなっています。

同書にて解説されている天神の法文について簡単に説明します。天神は、一般的には学問の神と捉えられていますが、いざなぎ流では鍛冶屋の始祖神として伝えられています。神代、日本に鍛冶の技術がないことを憂いだ「しやらだ王」の御子は、天竺に住む天神大王から、その技術を学んだという伝説が、そのルーツです。この場合の鍛冶は、主に刀剣を造るためのテクノロジーです。天神と太夫の密接な関係は、やがて鎮めの神としての天神、そして主に病人祈祷などに用いられた天神由来の呪具、大槌・小槌などを介して深化していきます。熱い鉄を打ち延ばす大槌・小槌の力は、やがて荒れものや封じものが祟ることを打ち鎮めていく呪具へと転化していったというわけです。オモテの神としての天神は、こうした打ち鎮めの神として祭文によって召喚されます。天神は、呪詛を打ち鎮める神として機能することになります。一方、ウラの天神は、荒ぶる鍛冶神であり、法文によって操作されると強力な式神となります。打ち鎮めの神、呪詛を封印する天神は、ウラを返せば刀剣を振りかざしながら荒れ狂う式神ともなり得るのです。勿論、太夫の倫理、ルールではこのような呪術は固く禁じられています。ただし、彼らはこのオモテとウラの法則に熟知し、双方を明確に峻別しながら祭文と法文の両方を蓄積しているのです。このメソドロジーは、太夫達によって精錬され、いざなぎ流の奥深い体系を形成しています。

キリスト教による迫害によって打ち捨て捨てられ、封印された小さな神々や地方の古き神々は、やがて悪魔のレッテルを張られ『ゲーティア』の72の悪魔として紹介されることになりました。本来、人々の崇拝の対象であったこうした古き神々は、魔術師によって時に荒ぶる神=ウラの精霊として使役されます。宗教的バックグラウンドが大きく異なり、また文化圏もかけ離れたヨーロッパと日本で、このようなウラの活用が意図的であれ、歴史的遷移であれ用いられていることは興味深いことです。また荒ぶる神は、インドのカーリを代表として世界中に散見できるものです。クロウリーは、ゲーティアの悪魔は人間の脳の中に住んでいる、と彼自身が出版した『ゲーティア』の序文で述べています(The Initiated Interpretation of Ceremonial Magic)。この見解は、ある部分では正しく、またある意味では異論を称えるべきものです。一つ確かなことは、クロウリーキリスト教的二元論の観点から彼らを”全き悪霊 = 悪魔”とは定義しなかったことであり、彼の魔術的な実験は、ウラの霊的世界への正当な興味と吟味であったと思われます。

“戦争と復讐の神”であるラ・ホール・クイト(『法の書』第三章)は、オモテとウラに鎮座する時代の守護神です。彼の戦争が武力によるものではなく、「法」の遵守と実行の為の精神を基盤とした戦いであることは言うまでもありません。さて我々は、ホルスのウラに何を見出すでしょうか? またその行為は有益なものになり得るでしょうか?

“唯一にして至高の儀式とは聖守護天使との知識と会話の達成である。それは完成された人間が垂直線上に上昇することである。この垂直線上からのいかなる逸脱も黒魔術へと陥る傾向を生じさせる。これ以外のいかなる作業も黒魔術である” 第4の書 アレイスター・クロウリー

一つ確かなことは、クロウリーは時として、この垂直線上の上昇から逸脱したということです。

“リトル・ブラザー、君はゲーティアに手を染めてるんだってな!”アラン・ベネット

Love is the law, love under will.