Waratahの思い出

Do what thou wilt shall be the whole of the Law.

ソウルを経由してシドニーのキングスフォード・スミス国際空港に降り立ったのは2009年11月13日のことでした。オーストラリアを訪問するのは初めてのことでしたが、太陽の日差しは思いのほか優しく、また心地好い風が街を滑走しています。北半球とは季節が逆転しているのでオーストラリアの11月は、日本でいうと晩春から初夏の頃でしょうか。その前年に訪問した米国テキサス州オースチンは5月といえども日本の真夏を凌駕する凄まじい暑さで辟易するしかありませんでしたが、ここシドニーの気候は比較的過ごしやすく快適でした。
空港に出迎えにきてくれたO.T.O.オーストラリア・グランド・ロッジのグランド・マスター兄弟シヴァとの再会を喜び、我々は一路、私の宿泊先のあるニュー・タウンへとタクシーを飛ばしました。ニュー・タウンは屋根なし商店街が連なったような細長いメイン・ストリートを主軸にした活気溢れる町でした。シドニーの中心街からは南に位置し、兄弟シヴァを除く多くのO.T.O.メンバーはシドニーの南部に居住しているとのこと。街行く人々はTシャツに短パンが主流で腕にはかなりの割合でタトゥーが刻まれています(日本とは違い、老若男女問わず、といった感じでした)。

オーストラリアにO.T.O.のグランド・ロッジが設立されたのは2006年4月16日のことです。1970年頃から急激にそのメンバーが増加したO.T.O.からまず、最初にグランド・ロッジとして国際総本部から独立したのは本場米国で1996年のことでした。続いて独立を果たしたのは英国で、それは2005年5月1日のことでした。即ち、オーストラリア・グランド・ロッジは世界で三番目に設立されたグランド・ロッジということになります。各国のグランド・ロッジには勿論、それぞれグランド・マスターが任命されています。米国グランド・ロッジのグランド・マスターは、米国グランド・ロッジの前身ともいえるアガペーUSグランド・ロッジで長らく秘書長官を務めた兄弟サバジウスで、彼はグノーシスのミサの素晴らしい解説書である『Red Flame 第二号 神秘の神秘』の著者としても有名です。英国グランド・ロッジのグランド・マスターは、Weiser社から『カバラ入門』を上梓した兄弟ハイペリオンです。

オーストラリア・グランド・ロッジのグランド・マスター、兄弟シヴァは三人のグランド・マスターの中で一番若く、また南半球で最も活動的なセレマイトです。彼のO.T.O.での活動についてアルファ・アンド・オメガ・ロッジ(アデレード)が2003年に出版した機関誌『Star Heart』から少し引用してみます。1988年、シドニーO.T.O.に入会した彼は1990年から1995年までシドニーオセアニア・オアシスのマスター、1995年から1997までをオセアニア・ロッジのマスターとして活動しています。1990年からグランド・ロッジが設立される2006年までオーストラリアのFSR (団の長、兄弟ハイメナエウス・ベータのオーストラリアでの代理人) を務め、またその間『Waratah』を中心としたO.T.O.の機関誌で精力的に執筆活動を展開しています。またかつてオーストラリア、ニュージーランド南アフリカ、日本においてO.T.O.の「諸儀礼と位階の監察官」に従事した他、グノーシスカトリック教会の「司祭」や薔薇十字チャプター (第五位階)の「最賢君主」を務めるなど、正に南半球並びにアジア・パシフィックの広範囲に渡る活動で知られています。2005年にはアーノルド・クルム-ヘラーの著書『ロゴス・マントラム魔術』を編集、アーノルド・クルム-ヘラーの息子パルシヴァル・クルム-ヘラー (シドニー在住) の前書きを収録した貴重な本を世に送り出しています。続く2007年には有名なP.R. Stephensenの『アレイスター・クロウリーの伝説』を編集、情報力に富んだ兄弟シヴァの素晴らしい序文を追加して出版しています。そして現在は、クロウリーの晩年の名作『Magick Without Tears』の編纂に取り掛かっている最中です。

ニュー・タウンで荷をほどいた後は、兄弟シヴァの自宅にお招きいただきました。彼からオーストラリア・グランド・ロッジの概要やストラテジー、世界中のO.T.O.のトピックを興味深く伺い、また書庫にあった『虚言の書』や『第4の書』の初版本等に嬉々としながら楽しいひと時を過ごすことができました。彼から私的な魔術的指導を受け、再びニュー・タウンまで戻り暫しの休憩と食事を済ませました。

その日の夜、O.T.O.が主催する「赤鷲の騎士」(Knight of Red Eagle)の参入式へ参加するため、単独ニュー・タウンにある彼らのテンプルへと向かいました。テンプルの近くでニュージーランドFSRと日本の前FSRと再会し、ひとまず近くのパブに席を移しました。このパブでオーストラリア・グランド・ロッジの役員達と挨拶を交わした後、私はテンプルへと向かいました。テンプルは「聖アレイスター教会」(!) と名付けられた、板張りの床と高い天井が印象的なテンプルで私は以前、その写真をオーストラリアのO.T.O.機関誌で既に見たことがありました。その写真は、正に兄弟シヴァがグノーシスのミサを祝祭している様子を捉えたものでしたが、明るい太陽の光条が、窓から幾本もテンプルに差し込む実に神秘的で美しい情景を撮影したものでした。

「赤鷲の騎士」はO.T.O.の第五位階と第六位階の中間に位置する位階で、O.T.O.ではロッジのマスターになるための前提条件となる位階です。私はゲストとして儀式に参列させていただきましたが、驚いたのはオーストラリア・グランド・ロッジの高位階魔術師達の儀式スキルです。これには流石に世界の広さを痛感させられました。主要司官は威風堂々、実に自信と慈愛に満ちた立ち振る舞いで儀式をリードしていました。淀みなく、そして一切の迷いもなく。このように流麗に儀式を挙行できるまでには、かなりの修練が必要と思われますが、恐らくオーストラリアでは場数、経験値がものを言うのでしょう。

明けた14日。この日は私自身のイニシエーションが予定されていました。「カドシュ団の卓越した(聖堂)騎士 そして聖杯の同胞」の名で知られるO.T.O.の第六位階の参入儀式です。この卓越した参入儀式は、中世の聖堂騎士団の伝説をモチーフにしています。このような聖堂騎士団的要素は、フリーメイソンリーにも大人気のトピックであることは云うまでもありません。勿論、聖堂騎士団フリーメイソンリーには直接的な関係はありません。とはいえ、一世を風靡した戦う宗教騎士団、その勇気と献身、騎士道精神とその哀れな末路は、いつの時代でも人々のハートを鷲掴みにして離さないようです。O.T.O.の第六位階は、この聖堂騎士団的バックグラウンドと共にクロウリーが加味した聖杯の象徴がその中心的テーマとなります。私はオーストラリア・グランド・ロッジ傘下のロッジに参加する他の志願者2名と共にこの儀式に参加しました (その内の一人は、現在オーストラリア・グランド・ロッジの要職に就いています)。彼らは極東から来た見知らぬ兄弟に対して、とても親切でまた本当にフレンドリーでした。私はここでO.T.O.の兄弟姉妹精神を痛感することになります。

第六位階の内容について公開することは勿論できませんが、その内容は正に素晴らしい、の一言でした。この参入儀礼で主要司官を務めたのは兄弟シヴァ・第10位階でした。彼の他の参入儀式は既に日本で数度目にしていました。例えば、2006年に初来日した際に彼を中心に実施されたO.T.O.の第四位階「完全なる魔術師 そしてエノクのロイヤル・アーチの同胞」やパーフェクト・イニシエートと呼ばれる「完全なる参入者 またはエルサレムの王子」などです。しかし、この第六位階の参入儀式で見せた彼のリチュアリストとしての鬼気迫る振る舞いは、過去のそれらとは及びもつかない壮絶さと華麗さに充ちていました。また第六位階の儀式的舞台装置もかなり凝ったものであり、恐らくあの儀式は日本では実行不可能でしょう(そういう訳でO.T.O. Japanで第六位階を授かったメンバーは全員オーストラリア・グランド・ロッジでその名誉を拝受しています)。

翌15日は同じく「聖クロウリー教会」で予定されていたグノーシスのミサに参加すべく、再びテンプルへと向かいました。O.T.O.は、その内部に「グノーシスカトリック教会(Ecclesia Gnostica Catholica))を内包しています。「グノーシスカトリック教会」はフランス起源の流れであり、1908年にセオドア・ルイスと親交のあったパピュスこと、ジェラール・アンコース博士によってO.T.O.に初めて導入されました。現在の「グノーシスカトリック教会」は、セレマの法によって「光と命、愛、自由」に於いての発展に専念する、セレマ的宗教環境を担っています。「グノーシスカトリック教会」の中心的活動は、勿論「グノーシスのミサ」の挙行です。『第十五の書』と題されるこの儀式は、アレイスター・クロウリーが1913年にモスクワにおいてO.T.O.用に作成した魔術的宗教的儀式です。「グノーシスカトリック教会」への加入は、洗礼と堅信礼によって行われますが、O.T.O.の正式会員は聖職者としての教育や聖職叙任を受けることができます。
ここシドニーは云うに及ばず、全世界のO.T.O.の活動体 (キャンプ、オアシス、ロッジ) の多くは「グノーシスのミサ」を定期的に挙行しています。殆どの地域でミサへの出席には、O.T.O.への正式加盟は必要とされませんが、参加者は皆、ホルス神の顕現である聖餐を受けるように要求されます。「グノーシスのミサ」はO.T.O.の中核的魔術的宗教的儀式であり、その内にO.T.O.の最奥義である第九位階の秘儀が描かれているといわれています。 

シドニーオセアニア・ロッジのこのグノーシスのミサは、大規模な祭壇と美しい舞台装置を兼ね備えた壮麗な祝祭でした。私は聖化された時代神の血 (葡萄酒) と肉 (光のケーキ) を体内に吸収し、みずからの内にあって神ならざるものなし、と力強く宣言しました。この秘蹟の継続と諸位階の秘儀参入のノウハウこそがO.T.O.のエッセンスなのだと痛感したひと時でした。

祝祭が終わり、テンプルの裏庭で余韻に浸っていた私の許に兄弟シヴァが近づいてきました。「兄弟ハイメナエウス・ベータの認可が下りたので、ただ今、この瞬間から君を日本のO.T.O.FSRに任命する。」そう、今回のオーストラリア来訪と第六位階への参入は、私がFSRになるための前提条件を満たすためのものでした。オーストラリアの兄弟・姉妹、ニュージーランドFSR、日本の前FSRの祝福と拍手に包まれ、とても照れ臭かったことを思い出します。

この日の午後になってようやく最初にして最後のシドニー観光に向かいました。案内役は日本の前FSRである兄弟Sでした。彼は私をO.T.O.に招き入れた張本人であり、その後の私の全てのイニシエーションをセットしてくれた団での恩人です。観光、といっても時間はあまりありませんでしたので、有名なオペラ・ハウスとその周辺を闊歩し、パブでビールを飲んで終わりました。ハーバー・ブリッジの下には怪しげなオカルト・グッズ & 書店があり、二人して足を踏み入れましたが、所謂 Magick関連の本は皆無ですごすごと店を後にしました。事前には聞いていたのですがシドニーのような大都市でも魔術を専門にしたオカルト書店は存在していないとのこと。本好きの極東の魔術師には、これは少し残念でした。ニュー・タウンにあった少し大きめの書店、そこにはウッィチ・クラフトの書籍は幾つかあったのですが、ヘルメス系や錬金術系の書籍すら満足にありませんでした。とはいえ、シドニーにはかなり大きな古本屋があり、そういった場所を探索するときっとレア本に出会うことができるのでしょう。

さてここまで書いてきて、大いに割愛した事柄があります。それはシドニーO.T.O.の面々のビール好き、パブ好きです。とにかく水のように平然と飲みまくり、しかも顔色に変化なし。私自身、シドニー滞在中には随分と飲みました。日本にいる頃とは比べものにならないくらいに。これには少し面喰いましたが、海外の魔術結社では多分ビールは「味付きウォーター」みたいなものなのでしょうね。

最後に兄弟Shivaが、まだオーストラリアのFSRであった時代に『Waratah』誌に掲載した次の文章をもってこの短い回顧録の幕を閉じたいと思います。

“ 私達は全て繋がっている。私達は皆O.T.O.だ。もし君がこの事実を忘れないなら、君の支部が間違った方向に向かうことはない。 ”

Love is the law, love under will.